読書『子ども格差』Ⅲ

自分には耳慣れない言葉が出てきた。「教育条理」である。条理は、筋道とか道理という意味らしい。

~多くの自治体では数値目標と教育評価を連動させています。しかし、こうした競争原理に基づく数値目標や結果責任論は教育条理にそぐわないのです。小泉・竹中両氏の構造改革路線がもたらした「教育改革」で現場は不毛な競争に追い立てられて、教師は疲弊し、教育現場は破綻寸前になりました。~

結果責任論が教育条理にそぐわないというのは、なんとなく納得できるが、「結果責任」に対して全く手を付けないのもどうかと思う。今のところ、教師は子どもの学力に対して責任を負わなくてもいいことになっている。教師は決められた内容を、授業を通して子どもに指導するわけだが、テストして、通知表に評定をつけて、子どもに渡すだけになっている。子どもにできる、できないの選別をするだけで、指導に対しての責任を負っていない。そこがあやふやだから、「勉強なんかできなくてもいい」と学習にまじめに取り組まない子どもが出てくる。「育てたい子ども像」はわかる。だが、育たなかったらどうするのか。責任はどうなるのか。放置していいのか。わからない。

~「子どもの最善の利益」の実現のために教育学に裏付けされた「教育条理」に基づく「教室と学校」を求めて、地域も協働して実践することが重要です。そのために国がすべきことはまず、子どもと教員にゆとりを与え、教育環境や条件整備にたっぷりと資金を投入することです。~

「地域も協働して」というのは夢みたいな話だ。文科省は次々と改革の手を打ってくる。しかし、地域は歴史と伝統を重んじる。朝の交通立ち番、資源回収などは、働き方改革に準じれば廃止や見直しをするべきだ。しかし学校は地域の機嫌を損ねることができない。結果、学校を運営する管理職は、文科省と地域の間をさまよって、両方にいい顔をして、その分教員が多忙になる。ひどい話である。(R4.4/19記)