映画『モリコーネ 映画が恋した音楽家(2022)』

モリコーネ 映画が恋した音楽家(2022)ENNIO/THE GLANCE OF MUSIC 監督 ジュゼッペ・トルナトーレ

今季最大の寒波がやってきて吹雪のような道中だった。隣市のショッピングセンター付設シネマでは、気になる2作品が上映している。私は、もう片方の映画を観るものと思い込み、ずっと勘違いしていた。特に、上映が3時間近くにもなるなんて。それならと、キャラメルコーンを買いたして座席に着いた。

長い、長い作品でした。モリコーネの偉大さは分かったが、彼が関わった作品は、『ニューシネマパラダイス』『海の上のピアニスト』しか観ていない。私は、ここ最近こそ、銀幕を観まくっているのだが、それまではハリウッド映画中心で話題作しか、観ていないのだ。彼が関わったイタリア映画にはとんと馴染みがないのだ。彼の凄さにもっともっと共感したかった。そして、映画音楽というものに、もっともっと興味関心を向けようと思った。劇場を出たら吹雪はおさまっていた。(R5.1/25記)

読書7-12『不幸論』Ⅴ

筆者が考える幸福とは何だろうか。

~幸福とは「自分がやがて死ぬ」という苦痛をはじめ、自分が投げ込まれた不条理を瞬間的に忘れることだ。~

どうせいつか死ぬのに、それを忘れて浮かれるな、ということだろう。筆者は死ぬことを不幸と考えているのだろう。でも、死は誰にも与えられている宿命である。遅かれ早かれ誰にでも起きることは、不幸だともいえないのではないか。

~幸福とは思考の停止であり、視野の切り捨てであり、感受性の麻痺である。つまり、大いなる錯覚である。~

~どう逃れても人生は苦痛や理不尽や悲しみの連続であり、とりわけ最後は死という最大の不条理なのだから、そうした残酷な事実に対して神経を麻痺させたくないからである。~

人は幸福を求める。そして不幸を見ないようにする。それは視野を切り捨て、感受性を麻痺させているのだ。

~世間による不当な扱いに対して、それほど憤激してはならない。そのとき必ずうまくいったときには見えなかった何かが見えてくるはずである。~

我々は幸福を追い求めることによって、大事な何かを見逃がしているのかもしれない。不幸から目をそらさないことで、また違う何かを見ることができるのかもしれない。幸福だろうと不幸だろうと、見なくてはならないものを見逃してはいけない。感受性のアンテナを高く、視野広く見て、思考深くあらねばならない。(R5.1/23記)

映画『そして僕は途方に暮れる(2022)』

そして僕は途方に暮れる(2022)監督 三浦大輔

昨日に引き続き、喫茶モーニングは小倉トースト。休日はこれを食べないと気が済まない。何気に市内シネマのサイトを見ると、いい具合に映画が観られる。喫茶店を出て、ジョギングでスーパーへ天然酵母パンを買いに行くが売り切れ、その足で逆方向の市内のシネマに向かう。2日連続になった。

なかなかに面白い作品だった。ただのアイドル映画ではない。しょうもない主人公が友人や家族から逃げ続ける、という物語だ。終盤の主人公の吐露には、私もじゅうぶん共感できる。そもそも誰だって、生まれたくて生まれたわけではない。そしてこの国は豊かだからか、一般的な家庭なら、そう苦労もなく生きていける。それこそ、なんとなく生きられるのだ。自分の気持ちが分からない、自分でもどうしたらいいか分からない、というのは多くの日本人に当てはまる偽りのない心情なのではないか。

出演者全員、あの元アイドルさえも、自然な演技でストーリーを紡ぐ。エレキギターのブルースが悲しげに、主人公のしょうもなさ、漠然とした倦怠感を演出する。希望はないが、また違う意味で観る者を励ます映画だ。(R5.1/22記)

 

 

映画『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け(2022)』

SHE SAID/シー・セッド その名を暴け(2022)SHE SAID  監督 マリア・シュラーダー

前作鑑賞後、シネマ近くのコンビニに行き、菓子パンとカップコーヒーを入手。シネマのロビーで腹ごしらえをして本作の鑑賞に臨んだ。私は「実話をもとにした…」という作品が結構好きなのだ。

はじめから終わりまでピーンと張りつめた緊迫感のある作品です。2人の新聞記者が、プロデューサーのセクハラという巨悪に立ち向かうストーリーです。権力や立場を利用して好き放題をする、そして公費で口止めさせる。ひどい方々ですね。

女性記者が、被害者からの証言を得ようと奔走するのですが、その中で、記者それぞれの家庭のシーンが多く描かれることに好感を持ちました。育児や子育て真っ最中でありながら、仕事にも打ち込んでいる。パートナーの援助や協力あってのことでしょう。そんな点も記者たちの偉業の価値を高めているのではないでしょうか。

終盤の告発者の発言から、宗教の力ってすごい、と思いました。やはり悪は、のさばらしていてはいけない。(R5.1/20記)

映画『かがみの孤城(2022)』

かがみの孤城(2022)監督 原恵一

午前中にジョギング、リハビリ、買い物を済ませ、ジョギングで市内の劇場に向かう。高評価なのは知っていたが、オオカミを被った少女が何となく怖くて観るのをためらっていた。たまたま時間が合ったので鑑賞を決定。

良い。グッド!とてもいい映画です。すぐ後ろに小学生がいなかったら泣いていたかもしれません。涙するのに相応しい映画です。それぞれ、抱えている中学生が7人、城の中に集まる。ファンタジーものかと思ったが、現実の世界と行ったり来たり。

私は原作を読んではいないが、ストーリーが素晴らしい。「うまくまとめた」という一言に尽きる。様々な伏線があり、それが見事に回収されていく。

いじめ、暴力など、不登校には闇が大きいのだ。それを正面から乗り越えるという物語ではない。最後のメッセージは「やり過ごせ」と受け取った。おまけ映像まで、感動できる、すべての世代にお勧めの映画です。(R5.1/20記)

読書7-12『不幸論』Ⅳ

1時間年休を取って、組合活動。1時間かけてある小学校に赴き、交渉をする。途中の大手古本屋でばったり知り合いに出会う。互いに「なぜ、ここに」と思ったことだろう。

筆者は幸福に対し盲目、怠惰、狭量、傲慢とボロクソいい、不幸の良さを論じている。

~私は確実に不幸であり、ますます不幸の坂を転げ落ちていくのであるが、人生の妙味と言おうか、こうした転落の過程でたった一つかけがえのない宝が与えられた。それは「死ぬことがあまり怖くなくなる」という宝である。あまりにもこの世が味気ないので、あまりにも無意味なので死ぬことがあまり厭ではなくなる。~

今この瞬間も、私の左手はしびれてキーボードを打つのにも苦労する。が、死ぬときの苦しみなどは、この比ではないのだろう。想像もできないような痛み、想像もできないような苦しみを乗り越えて死んでいくのだろうな。そう思うと、死ぬことは恐ろしい。

~世の中じつは理不尽だらけであり、右を見ても左を見ても、不幸な人々がうめき声をあげている修羅場である。だがここからも一つの精神の安定が得られる。それはこの世のいかなることにも期待しない態度であり、死さえも恐れない態度である。生きていても死んでいても、まったくおもしろいことはないのだ。期待に値することは何もないのだ。我々は愚かにもいいかげんに期待しまくるから振り回されるのである。~

この世は理不尽だらけだ、修羅場だと思っておけば、多少のことも辛くはない。この世は素晴らしいなんて一面的な見方なのだ。幸せで当たり前なんて思うのが間違いだ。そうなると、仏教の「四苦」にまた戻ってくる。(R5.1/19記)

読書7-12『不幸論』Ⅲ

筆者の考える幸福について。

~すべての他人を苦しめないというふうに条件をきつくすれば、ただちに誰も幸福になれないことが導かれる。我々が生きているとは、他人を苦しめて生きていることだからであり、誰をも苦しめずに生きることはできないからである。~

豊かになるということは、誰かの財産を奪っているということ。先進国である我が国も、途上国から搾取した富で成り立っていると言えなくもない。

幸福追求とは他人を苦しめることの追求だとすれば、やはり人間は罪深い存在なのだろう。反面、「人の役に立ちたい」という思いもある。それは無意識で罪滅ぼししようとしているからだろうか。

~自分の幸福の実現が膨大な数の他人を傷つけながらも、その因果関係の網の目がよく見えないために、我々はさしあたり幸福感に浸っていられるのである。それがすっかり見渡すことができたら、この世に幸福はあり得ないだろう。~

~幸福は、盲目であること、怠惰であること、狭量であること、傲慢であることによって成立している。~

幸福を感じたとき、それによって誰かが苦しんでいないか、思いを馳せろということだろうか。(R5.1/18記)