読書7-1『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』Ⅴ

筆者は、清濁併せ持つのが人間だという人間観なのだろう。

~子供の世界には大人の窺い知れないところがあるのだというセンスがやはり必要だと思います。子供の世界にあまり光をあててはいけない。人間はどうしても光の当たらないところで育つという部分があります。闇を必要としているところがあるんです。~

「親は子供のことをすべてわかっていなければならない」というスタンスは間違いだということだ。たとえ親子であっても、踏み込んでいけない部分がある。子供からするとすべてを監視されているような、息苦しい気持ちになるかもしれない。

~とことん正義を行使しようなどという発想は、どこか現実に対して、人生に対して無知なところがあると感じられてなりません。子供と言えども全部には立ち入れない、立ち入っても分からないところがあるという気持ちが必要ではないでしょうか。~

~理解し合うのがよき関係だという思い込みは一種の近代病だと思います。近代主義というのは、とことん語り合えば人間は理解し合える存在だとする生き方です。理解し得ないことは努力不足ということになってしまう。~

生徒指導に関して「子ども理解」という言葉がある。問題行動を起こしたり、特別に支援が必要な子どもに、理解が必要とされている。そのために、プロフィールをつくり行動をこまめに記録したり、日記などを書かせて性格や心情を探ったりする。その子を、こうさせたいがために、指導の糸口を探っているのだ。「こうでなくてはならない」「こうさせたい」というものがあること自体、疑ってしまう。(R4.10/1記)

読書7-1『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』Ⅳ

筆者の人間観である。

~人間なんてほんとうにどうしようもないものなんだ、という認識が基本になければいけない。~

かの地ではまだ侵略戦争が続いている。それがいい例だ。自分も含めて、人間は本当にどうしようもないものなのだ。

~たえず教育というものは、意識したり、方向づけたり、努力したりするところからはみ出る部分を持っています。人間論は、不分明のところをどうしても持ってしまうし、また、持っていなければならないのではないか。~

教育を生業としているのだが、子どもと一日付き合っていると、「はみ出る」場面に多く出くわす。人間には「はみ出る」部分がどうしても出てしまうし、出なくてはならない、と読める。「はみ出る」子どもがいなくてはならないとなると、教師はその事実にどう対峙したらいいのだろうかと思ってしまう。一般的に言えば、教師は「はみ出ないように」「落ちこぼれないように」取り組んでいる。矛盾を抱えている。

~人間というのは簡単に観念に整合するような存在じゃありませんし、合理的な存在でもないし、理論的存在でもない。どんどんはみ出してしまう。綺麗な理念通りにいかないわけですね。結局のところ、その美しい理念は多くの人を幸福にしなかったわけです。~

教育論文というものがある。私も若い時は論文を熱心に書いた。主題を決め、仮説を立て、実践をし、検証し考察する。今から思えば、子どもから仮説に当てはまる子どもだけにスポットを当てて、さも素晴らしい実践であるかのように書いていた。そんな論文でよい評価を得ても仕方がないことを、私の今の立場が如実に表している。今では理論で子どもを語るつもりはないし、そういったものはそう信用する気はない。(R4.9/29記)

 

読書7-1『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』Ⅲ

子育てをするにあたり、自分の子が周りとかけ離れて違っていると心配になるだろうな。

~当たり前のことだけど、人間一人ひとり違うのです。そして人間の尊厳、他ならぬその人が生きている意味は人と違うところにある。その人の存在の意味はみんなと同じだというところにはない。違うところにあると思うのです。~

教師をしていると、「みんなと同じように」することを自然に要求してしまう。異端であることを打ち消そうとしてしまう。みんな同じであれば、指導がしやすいというのは間違いない。35人もの児童生徒を一人の教師が管理、指導せねばならないのだ。かくして、同調圧力を受けながら、学校を過ごすことになる。

~あまりにいじめを警戒して、きめ細かく親が介入したり、教師が介入したりすると、いじめという醜い現実から、子供の目をそらさせてしまうところがあるような気がします。「いじめ」で子供は社会の現実を知るところがあると思うのです。他人という者の残酷さとか恐さとかですね。更に言えば、自分の弱さも思い知る。~

やはり人間というのは、恐ろしいものだということを知る機会は必要だと思う。世の中、いい人ばかりじゃないし、いいことばかりでもない。どちらもトントンだ。

~子供たちはいじめたり、いじめられたりして、物凄く自分を知りますね。それを傍で見ているぼくなんかだって「もう、よしたら」といえない勇気のなさなんかで、自分を知ってきたのです。いじめっていうのは実は物凄く人間とか人生を教えてくれる経験でもあると思うのです。~

小学4年生の時、おとなしく人のよさそうな友達がいた。だが、その子はクラスのボスにからかわれた時、顔を真っ赤にして歯向かっていった。自分はボスの振る舞いにいやいやながら付き合っていたのに。その子のことを凄いと思ったと同時に、それが自分の限界なのだ。(R4.9/28記)

映画『ファーストミッション(2022)』

ファーストミッション(2022)脚本 HAYATE

きのう1時間も時間外勤務をしてしまったので、超過勤務分が3時間となり、首が回らなくなる。今日は30分の割り振りをとり、3時半に職場を抜け、そのまま隣市のミニシアターへ自転車で向かった。途中コンビニで、豆大福とコーヒーをイートインした。

結構な高評価で、しかも1週間の限定上映なので、見逃してはならないと思っていた。が、出足から何か中途半端で、設定もよく分からない。ナレーターと映像がどこかマッチしていないのだ。そして何かヒーローらしき女性が延々とチンピラ相手に戦い続ける。アクション色を強めているのだが、私はこの手の展開が単調に感じてしまうのだ。いったんシーンが止まると、また似たような展開が始まる。あ、そうなのか、これは少し前に話題になったあの低予算映画みたいなことを言いたいのだな。

巨悪に立ち向かうといいつつ、出てくるのはチンピラっぽい人多数。ヒロインは、ネットのプロフィールはとても綺麗なのに、ポスターやスクリーンではそんなに可愛くない。などなどツッコミどころはあるのだが、家に帰って調べると、本作の出自を知ることができた。関連ホームページには「脳卒中当事者と一緒に世の中が元気になるアクション映画を作りたい!」「障がい者支援や、映画館や劇場へのコロナ救済活動を応援したい!」という文面が。

映画の出来は高評価ほどではないと思うが、映画の作り手の熱意に感動。この映画に出会えたこと、この映画の鑑賞者になれたことはよかったと思う。(R4.9/27記)

読書7-1『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』Ⅱ

同じような意味のことが書かれている部分があった。それは「暗さ」とか「暗闇」という言葉である。

~街ばかり人間の内面の汚れを無視して綺麗になられても困る。安らがない。街に暗い路地のようなものがなく、清潔で明るいところばかりになると心の中に抑圧を溜めてしまう人が出てくる。人間はそういうものだと思います。~

妙に共感してしまう自分がいる。自分だって全くの善人ではない。狡さ,嫌らしさをつい出してしまう。そして清廉潔白な人には近づきがたく思ってしまう。よくないんだろうけど、それが素の自分なのだ。そして、素の心の色が、明るいのか暗いのか、それは千差万別なのだ。明るいのが正しい、多数派だからと言って、暗さを抑圧してはいけない。

~知らん顔をしてあげることも大事。子供というものは親にすべて見られていたら成長しないところがあると思う。暗闇で育つという部分が人間にはあるのではないでしょうか。親の目の届かない暗闇をなくしてしまったら育たなくなる。~

干渉しすぎるな、距離感を保て、ということか。

~他者への理解というのも、ほどほどにしなければいけないのでしょう。人間の暗闇は底知れなくて実は怖いものです。それをやたらに知ろうとしてはいけないのではないか。子供に対しては詮索して根掘り葉掘り知ろうとするのはとても乱暴で有害なことなのではないでしょうか。~

子供を理解しようと、いじめの実態をつかもうと、アンケートを行う。が、アンケートをとったからと言ってすべてを知ることができるわけではない。子供が常に正直にすべてを吐露するわけではない。アンケートが事実だと鵜呑みにしてははいけない。アンケートは、問題が表面化した時に、誠実に対応していたと主張するための「アリバイ作り」でもある。(R4.9/26記)

読書7-1『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』(山田太一)

親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと (PHP新書)  – 2014/6/14 山田 太一  (著)

後半の3連休も最終日。今日から7冊めのノートである。

著者は超有名な脚本家だが、その作品群に私のなじみはない。著者のドラマや映画を好んで見たことはない。著名な脚本家が、自分の子育てを振り返って子育て論を綴っている。

~親は子供に影響を与えるけれど、その影響の大半は意識的な「子育て」によるものではなく、親の「存在」が避けようもなく与えてしまう影響だというように思う。結局その親の器量以上のものを子どもに伝えることはできない。~

私も小さい頃、親を超えたいとか思っていた時があった。でもこうして人生の後半を過ぎてみると、自分もちょぼちょぼだったな、と思う。働き盛りで寝たきりになった父親の姿を見て、健康には気を遣うようになったか。

~生まれてきた時から子供は他ならない「その子」です。決して思うような絵など描かせてくれません。教育次第だと思ったり、子どもがいけないのは何もかも親のせいのように思うのは傲慢です。~

こう見ると教育の役割、学校の役割って何だろうと思う。教育によって「こういう人間を育てたい」なんていうのはおこがましい気がする。「学力をつける」「知識や教養を身につける」「社会性を身につける」「生活習慣をしつける」程度でしかないと思った方がいい。保護者も教師も、「この子はこの子なんですねえ」と言い合いながら、成長を支えていくものなのではないか。(R4.9/25記)

映画『君たちはまだ長いトンネルの中(2022)』

君たちはまだ長いトンネルの中(2022)監督 なるせゆうせい

座席最前列で、行きがけスーパーで買ったおにぎり2つを食べて、2本目を鑑賞する。本作の評価を見てみたら、群を抜いての高評価である。今日はこれを目当てに来たようなものだ。

珍しくメッセージ性の強い映画である。おそらくメッセージありきで本作が作られたのだろう。そのためだろうか、ストーリーとしては、あまりにも不勉強な社会科教師、古めかしい権威をふりかざす教師など、不自然な場面が気になった。特に、ヒロインは「自分で調べればいい」ことを強調していたが、その割にどことなく父親の主張の受け売り臭が強く、ヒロインが「自分で調べている」シーンをどこかに入れるべきだと思った。実際、「自分で調べろ」と言われても、「どう調べたらいいかわからない」というのが今の日本人全体の現状なのだ。

しかし、メッセージ自体は全くその通りである。ヒロインの主張を新人議員が代弁するシーンは感動的でもある。映画自体のクオリティはともかく、このような映画自体が数奇な存在であること、そしてこのようなメッセージを発する媒体自体が数奇であることが高評価の理由なのだと思う。自分自身が勉強する、自分で考えて自分で判断する重要性をあらためて感じた。(R4.9/23記)