読書9-2『新しい幸福論』13

自己実現という邪心を捨てれば、仕事に打ち込める

令和6年の2日目。一族を連れて、実家に新年の挨拶に行く。娘や孫たちと、仏壇に手を合わせる。

働くことに意義はない、という続きである。

~メーダは賃労働が企業組織の中での対価であり、企業が効率性の追求という資本主義の論理で動く限りにおいては、個人が自己実現や自己表現を求めるような余地はないと考えたのである。~

賃労働が企業組織の中での対価、というのは企業が労働の報酬として労働者に与えるものは賃金しかない、ということだ。賃金以外の精神的満足を得ようとするのはおかしいということだ。私も休職以前は、賃金をどれだけもらっているとか関心はなかった。ただただ、「優れた実践をしたい」「みんなから認められたい」などの自己実現ばかりを求めていた。要するに筋違いの考えだったのだ。

~働くこと自体から異議を感じることはないが、食べていくための手段であるということに徹し、稼いだ所得の使い途を知ることによって満足を得る人はかなりの数いるのではないだろうか。~

~労働自体は苦痛であるが、労働から得られた賃金、所得を財源にして人は消費行動が可能になるのであり、人々は消費することによって満足のある経済生活を得られる。~

究極、金のため、生業として教師という仕事があるのだ。しかし、子どもに「どうして先生になったの」と問われると、「給料が欲しいから」と答えにくい一面はある。

~働くことから得られる意義はほとんどないが、人間は生きるため(すなわち消費のため)に働かざるを得ないのである。~

もう自己実現も自己表現も欲していない。しかし、自分に仕事があるということは恵まれていることだと思う。それは自分が求められているということでもある。だから、消極的とか、後ろ向きとかになるつもりはない。給料をもらう以上、それなりの働きをしなくてはならないと思う。(R6.1/2記)