読書8-16『文明としての教育』Ⅷ

今日も割り振りをとって早めの帰宅。この後、組合の会議が待っている。

~国語教育こそがじつは愛国教育なのだ。国語教育は義務教育の中で中心的な部分を占めるべきであるし、その言葉を愛することを通して国を愛する心を養うのが正しい方法だ。~

先日、たまたま聞いたラジオの内容が「国語教育の危機」を訴えていた。例えば『ごんぎつね』の授業でのこと。兵十の母親が死んで葬式の準備のシーンで鍋で何かを煮ている。教師が「何を煮ていると思いますか」と発問すると「死んだ母親を煮ている」という意見が返ってきたとか。このエピソードはあながち冗談ではなく、十分あり得ると思った。今の子どもが地域共同体の葬式に参加する機会など皆無である。物語の背景が全く理解できていないのに、読み取りなどできないのだ。

~差し当たって復活すべきことは近代古典の名文、科学者や歴史家の文章を生徒に読ませ、できることならそれを暗唱させるという訓練ではないでしょうか。~

国語教育が衰退しているとは思う。だが名文の暗唱がその救世主になるとは思えない。今の子どもにはただの苦痛でしかない気がする。我々から考えたら気が遠くなるくらいに、今の子どもは読書離れ、活字離れ、日本語離れが進んでいるのだと思う。

~寺小屋や藩校で行われていた読書とは声を出して朗読することでした。そうした訓練によって日本語の文体、息づかいを身につけ、初めて個性のにじむ文章が書けるようになるのです。~

寺小屋や藩校で行われていた一時代前のことを、そのまま復活させればいいというものでもないだろう。(R5.11/7記)