読書8-16『文明としての教育』Ⅶ

夕方から歯医者。今日は治療というより掃除、歯石除去。歯肉検査、歯の磨き方指導も含めて、45分間拘束される。さすがに疲れる。

人文主義的な教育では生徒の自発性や潜在的な能力を重視します。こうした内発主義ないし自由教育というものは、じつはある種のディシプリン、つまりしつけられた規律をすでに持っている子どもたちに対してのみ有効なものです。~

「教育は自ら求めるもの、選ぶもの」ではありながら、まずは規律を持たせなければならないのだ。要するにしつけというやつだ。

~基礎的な規律、もっというなら経験のための方法を教え込まなければ、その先の自由教育というものはあり得ない。~

私は、2年続けて「1年生の教室の隣」で授業をしていた。1年生に対する指導を否が応でも目の当たりにしていた。学校というものを知らない1年生をしつけるというのは並大抵のことではない。だが、しつけるのは1年生、2年生までが勝負のような気がする。

~どんなに創造的な知恵の営みも、その最初の一歩は職人的な技の習練から始まるし、本人にとっては外からの強制として始まるほかはありません。~

ある程度の強制力をもって指導に当たらなければしつけは身につかない。だが、学年が進むにつれて、教師側の強制力を弱めていかなければ、子どもからの反発を受けることになる。その匙加減は本当に難しいと思う。(R5.11/6記)