読書8-16『文明としての教育』Ⅲ

体育的行事の代休を終えて新しい一週間が始まる。大きな行事が終わったというのに、各学年でそれぞれイベントを抱えており、それに引きずられるように過ごしている。例えば、ある学年は社会科で地域のスーパーマーケットの見学、ある学年は理科でプラネタリウム、ある学年は生活科の町探検という次第だ。それと同時に、今週から読書週間が始まっている。やはり詰め込み過ぎなのだ。

~統治とサービスの境目が曖昧になり、教育の総量が一方的に増えてきました。教室外の社会そのものが持っていた教育機能の急激な減少であった。~

先日のブログで紹介したフィンランドの本に書かれていた。「日本は学校教育の長さでは世界屈指なのに、不十分な教育方法で技能の格差を拡大させている」とのこと。子どもを学校に長期間、長時間縛り付けておきながら、いっこうに学力や技能が身についていないということだ。まさに日本の弱点である労働生産性の低さを物語っている。

~公教育に教育を過剰に負担させる。これが第二次大戦後の日本の教育の姿でした。その末に極端な姿を見せたのが、いわゆる「ゆとり教育」「総合学習」の時間の設定だった。「ゆとり」さえ制度的に教える。教室の中で強制する。~

子どもに関わることはすべて学校に任せておけばいい。ゆとり教育は、学力低下が問題になり、今や見る影もない。総合学習は外国語指導に喰われ、創世記の面影はない。その外国語指導も、ほとんどの指導者は英語の免許を持っていない。要するに、安物の教育である。(R5.10/31記)