読書8-16『文明としての教育』Ⅵ

三連休最終日。ようやくゆっくりできる。

~教育というものは一面において、自ら求めるものであり、自らが選ぶものだ、という精神だけは何とか復活したいと願ったのです。~

子どもが自ら求めて、自ら選んで学校に来てくれたら、教師はどんなにかラクだろう。自ら求めるもの、自ら選ぶものと言いつつ、物心つかないうちから学校教育というレールに乗せている。そして実際のところ、我が国には選ぶだけの選択肢がないのだ。「すべての子どもが学校には通うものだ」というのが常識になっている。

~学校が次第にサービス教育に傾き、社会の全体が錯覚を起こし、統治としての教育を忘れた結果、今日最大の問題は、学校が次第に本来持つべき権威を失いつつあるということではないか。~

統治としての教育を忘れたというよりも、その役割を終えたというのがホントのところだ。誰もがもうじゅうぶんに飼いならされてしまっている。

~あくまでも教育は基本的には文明を背負った国家の統治行為であり、それなりの権威および権限を教育の現場、末端の教師に与える方法を考えるべきではないか。~

まだ学校に権威があったことは、教師にもそれなりの権威があった。大学出という高学歴の権威である。しかし、大学出の学歴など今や全く大したことはない。教師の専門性もしかりである。権威や権限を与えたいのなら、大学を卒業したばかりの若者に教師をさせてはならない。もっともっと教師を狭き門にせねばなるまい。(R5.11/5記)