読書7-3『「こころ」の本質とは何か』Ⅶ

かつて学校は聖なる場所、教員は聖なる人だったのだ。

~教員はながく「聖職」視されてきましたね。そのような聖なる学校をつかさどる職種だったからです。学校に対する人々の夢と、それゆえの学校の聖性・絶対性が社会に広く共有されるとともに登校は子どもたちにとって自明のこととなりました。勉強が分かる分からないよりも、みんなで教室を共にすること自体が大切な何かでした。~

学校に対する人々の夢とは、豊かな未来へと自分たちを導いてくれるという夢のこと。そう、学校へ通うことが豊かな未来への切符だったのだ。日本は高度経済成長、バブル崩壊を経て、今、けして豊かではない。だからと言って、学校に夢を見出せるかというと、そうでもない。社会全体が、小さな範囲の現実に満足しているように見える。そして環境破壊、戦争、食糧問題、資源問題などを考えると、豊かな未来が見えてこない。

~学校の聖性・絶対性が生きている時にはそのような子どもたちにも学校の権威や全額の一般的価値は疑われませんでした。~

~いまは子どもたち全体に懈怠の雰囲気があり、指の間から砂がこぼれるように学校の規範枠からぼろぼろとたえず逸脱するというふうではないでしょうか。学校の権威や価値がこどもの心から消えたからですね。~

学校の権威や価値が消えた。なぜ消えたのか。昔は先生も「師」と呼ばれ、それなりに学力も見識もあった。だが先生だけが高学歴というわけではなくなった。そうなると権威もなくなるだろう。そしてぶっちゃけ勉強しなくたって、学校に行かなくたって進級、進学できる。勉強の内容だって、将来役に立つとは思えない。それでは価値が持ちなくなるだろう。(R4.10/31記)