読書8-16『文明としての教育』Ⅴ

三連休初日。娘や孫の世話で一日が駆け足で通り過ぎた。

~さらにこうすれば両親や祖父母がもう一度教育というものを考え直し、子どもと家庭の中で向かい合う時間を作るだろう。そして一人ひとりの子どもが自分の将来を思い、自発的に積極的に人生を選び取るようにする。そういう機会をどの家庭にも与えたいというのが私の考えでした。~

筆者の考えはよくわかる。しかし、家庭の教育力がなくなったから、学校がたくさんのものを抱えざるを得なかったのではないか。例えば、高度成長期であれば、まだまだ三世代同居家庭は残されていた。そして専業主婦も多かった。子どもの教育に、母親や祖父母がしっかりと関わることのできる土壌があったのだ。

~本来ならば家庭が行うべき教育が家庭から失われつつあります。時間を守る、挨拶をする、このようなしつけすらしだいに行われなくなっているのが現状ではないでしょうか。学校週三日制の提案では、そういう機会を蘇らせることも視野の片隅に置いていたのです。~

おそらく家庭の方から崩壊し、学校教育の肥大化となったのである。今や核家族、両親共働きが当たり前の世の中。両親だってそもそも子どもと関わる時間がほとんどないのだ。そんな中で、週三日制を主張しても空論に終わってしまう。

~私の提案は、単に個人が自由になる、学校制度の縛りから離れるということだけではなくて、学ぶこと、あるいは教育を受けることの緊張感を子どもたちだけでなく親たちにももう一度味わってほしかった。~

「教育を受ける緊張感」、憧憬を思い浮かばせる言葉だ。その年齢になったら義務教育が始まるというのがあまりに当たり前すぎて、緊張感も何もない。教育を受けたって何の得にもならないし、役にも立たない。学校なんて素晴らしいところではない。もう日本人は十分満たされている。(R5.11/3記)