読書7-15『2020年からの教師問題』Ⅷ

こういう教師はだめだ、という論が続く。

~教師の役割は本来結果が求められるものではありません。それはあくまでも社会に出ていく前の生徒たちに対して、「先に生きている」者として、学びの場を提供することだと思います。~

「先に生きて」さえすればいい。学びの場を提供さえすればいいのに、教師は教えたがる。指導したがる。それは、もう教師ではなく、指導者だと。

~教師と指導者は性質が明らかに異なります。にもかかわらず両者を同一化する考えが教育現場の中からも外からも出てきているのです。~

昔の話になるけど、「小学校低学年理科、社会」が廃止されて「生活科」が誕生した。やがて「総合的な学習の時間」も始まった。その時に、よく「指導するな、支援しろ」と言われたものだ。これからは指導ではなく、支援なのだと。だが実際に教師がどう働きかけていいかわからず、子どもを傍観したり、及び腰になったりして、やがて「支援」を支持する動きも弱まった。結局、教師は指導する立場から離れられなかったのだ。それは今も変わっていない。

~「自分が~させた」と公言する教師は、悪く言うならば、生徒を使って自己実現を図ろうとしているのです。自分自身の達成感のために結果を追求するようになると、生徒が回り道をしたり、失敗したりすることのリスクを回避するため、教師がすべて綿密に計画を立てて、その実行を生徒に強く迫っていくことがあります。~

自戒と反省をこめて言うが、まさに私が、数年前までは、子どもを使って自己実現を図るタイプだった。いい授業がやりたい。いいクラスを作りたい。皆から一目置かれたかったのだ。寝食を忘れて努力に努力を重ねたが結局ダメだった。「子どもを思いのままにしたい」そんな下心が子どもにも伝わったのだろう。ほとんど空回りばかりの教員人生になってしまった。今はまったくそんな気はないね。(R5.2/27記)