読書『子ども格差』Ⅶ

今日は休日だが久しぶりに映画を観ないで終わった。雨だっだし、疲れていたのだろうか、そういう気になれなかった。

子ども理解とか、生徒指導とか、自分は形どおりにしかやってこなかったかもしれない。

~子どもを理解するためには、子どもの心に共鳴できる柔軟な心を持った「人間教師」になる必要があります。子どもとは失敗を繰り返すものであり、大人と同じように複雑な心の働きをするデリケートな存在であるという認識が必要。~

3年前、もう教師になることを諦めた。人間になろうとした。まあ、そう思っても30年培ってきたマインドは抜けきらなかったが。それでも今なら、失敗をした子どもに「人間、だれでも失敗する」と言うことができる。その子に向けて、そして自分自身にも向けて。

~子どもとは発達可能体だということです。どんなに問題行動を続発させていたとしても、周囲の大人の愛情さえ得ることができれば、必ず立ち直り、豊かな人間として成長していくことができます。~

ややもすると、教師は、子どもという存在がどういうものなのかを認識したり、更新したりするのを怠ってしまうのではないか。少なくとも私はそうだ。子どもは未発達であるがゆえに、失敗したり問題を起こしたりする。だが、教師はそれが許せなかったり、自分が恥をかかされたと思ったりしてしまうのだ。少なくとも私はそうなのだ。教師の指導不足、力量不足と評価されるのでは、と思ってしまうのだ。

~指導とは「従わせる」ことでも「処罰によってコントロールする」ことでもないということを理解しておかなければなりません。子どもが問題行動を起こす心理的発達的な背景や弱点に丁寧に寄り添いながらサポートすること。つまり本人自身の心をエンパワーメントすることが求められているのです。子ども自身が自らの成長・発達の証として問題行動から脱出していくのをサポートする人間的な関係性こそが本来の「生徒指導」です。~

エンパワーメントとは「本来持っている能力を引き出し、湧き出させること」とあった。正直に言えば、「従わせる」「言うことを聞かせる」ことが指導と思っていた。実際、現在の自分の指導は、命令、処罰がほとんどだ。関係性、それもその子の背景や弱点に寄り添ってサポートする関係性なのだ。寄り添う。サポートする。自分に最も欠けている視点だ。私自身が命令や処罰から脱出することが課題だ。(R4.4/24記)