読書7-12『不幸論』Ⅶ

不幸とは苦しんでいる人たちへの負い目がもとである。その負い目から逃れることができる道があるのだ。

~負い目から逃れる道が一つだけある。それは自分が死ぬことを、死ぬことのみを見つめること。そうすると、自分の限りない惨めさが分かり、相対的な不幸など消し飛んでしまい、私は真っ逆さまに不幸になり得るのだ。~

相対的な不幸とは、誰かと比較した時の不幸だろう。自分が死に行く存在と自覚すれば、決定的な不幸になるのだ。死は悲しい。死は惨めだものな。

~死すべきものとしての私の在り方そのものが不幸なのである。「自分の意志ではなく少し前に生まれさせられてまもなく死んでいく」という基本構造そのものが不幸なのである。~

どんなに素晴らしく生きても、最後は死で終わる。生の総決算が死だ。だから死が不幸だとしたら生も不幸なのかもしれない。

~人間としての私にとって、死は生と対立する概念ではない。人間的に生きていることそのことが間もなく死ぬことを知りつつ生きていることなのであり、つまり死の絶対的不幸とは人間として生きることの絶対的不幸に他ならない。~

~生きている限り不幸であれば、私は死という絶対的不幸も比較的冷静に受け入れられるであろう。だから私は死を受け入れやすくするために不幸にならなければならない。~

筆者がことさら不幸を強調する根拠は、「死を受け入れやすくする」というところらしい。言い換えれば「死への恐怖」を緩和することだろうか。確かに思い切り幸せで人生を謳歌した者はきっと生に執着し死を受け入れられないと言える。

筆者のいうことはなんとなくわかったけど、それでも生きねばならぬ日常は横たわっており、幸福も不幸も味わう余裕などない現実がある。(R5.1/28記)