読書7-12『不幸論』Ⅳ

1時間年休を取って、組合活動。1時間かけてある小学校に赴き、交渉をする。途中の大手古本屋でばったり知り合いに出会う。互いに「なぜ、ここに」と思ったことだろう。

筆者は幸福に対し盲目、怠惰、狭量、傲慢とボロクソいい、不幸の良さを論じている。

~私は確実に不幸であり、ますます不幸の坂を転げ落ちていくのであるが、人生の妙味と言おうか、こうした転落の過程でたった一つかけがえのない宝が与えられた。それは「死ぬことがあまり怖くなくなる」という宝である。あまりにもこの世が味気ないので、あまりにも無意味なので死ぬことがあまり厭ではなくなる。~

今この瞬間も、私の左手はしびれてキーボードを打つのにも苦労する。が、死ぬときの苦しみなどは、この比ではないのだろう。想像もできないような痛み、想像もできないような苦しみを乗り越えて死んでいくのだろうな。そう思うと、死ぬことは恐ろしい。

~世の中じつは理不尽だらけであり、右を見ても左を見ても、不幸な人々がうめき声をあげている修羅場である。だがここからも一つの精神の安定が得られる。それはこの世のいかなることにも期待しない態度であり、死さえも恐れない態度である。生きていても死んでいても、まったくおもしろいことはないのだ。期待に値することは何もないのだ。我々は愚かにもいいかげんに期待しまくるから振り回されるのである。~

この世は理不尽だらけだ、修羅場だと思っておけば、多少のことも辛くはない。この世は素晴らしいなんて一面的な見方なのだ。幸せで当たり前なんて思うのが間違いだ。そうなると、仏教の「四苦」にまた戻ってくる。(R5.1/19記)