読書7-12『不幸論』Ⅵ

筆者の不幸に対する出発点のようなものが書かれている。

~私はことさら不幸を望んでいるわけではない。ことさら不幸を渇望しなくても、厳密に思考することを放棄しない限り、人生はもう十分すぎるくらい不幸なのだから。~

不幸を渇望する人なんていないと思うけど。

~私は彼らに対して何もしていない。そしてぬくぬくと生きている。このこと自体が負い目である。いま私がたまたま幸福であったとしても、不幸にあえぐ膨大な数の人を視野に入れると、私は負い目を感ずるということである。~

彼らというのは、飢えで苦しむアフリカの子どもたち、世界の戦争の被害者、差別、濡れ衣に苦しむ人々のこと。不幸な人を前にして、自分が幸せでいていいのか、ということだ。

~負い目は疑いなく不幸である。こうして私はいかに幸福の絶頂にいても、こころをちょっと操作をすれば、いとも簡単に不幸に陥ることができるのだ。~

筆者の不幸論の発端は「負い目」だと思う。苦しむ人々も不幸、負い目を感じる人もこれまた不幸。とすると、この世はみんな不幸になってしまうな。

~自分がいつでも不幸を自覚することは、真実をなるべく覆い隠すことなく、見る勇気を持つことである。~

自分が幸せだなんて思うな、そうなると真実が見えなくなってしまうぞ、というメッセージなのだろう。(R5.1/27記)