読書7-12『不幸論』Ⅱ

今週が始まったが、目の回るような忙しさである。時間内に仕事を片付けたいからなおさらである。

幸福、不幸、真実というものについて。

~真実を知ると不幸になるから、われわれは幸福になるために、正確に言い直せば、幸福であると思い込むようになるために必死の思いで真実を隠して生き、そして死んでいくことを決心した。~

~個人は精神的にも肉体的にも資質や能力は徹底的に不平等であり、しかしこうした不平等な個人に待ち構える運命も恐ろしく不平等である。~

真実というのは、きっと個々人の資質能力、そして運命が不平等であるということを言うのだろう。能力のない人からすれば、同じ人間なのになぜこのような違いをつけられたのかと絶望するだろう。悲運な出来事に遭遇した人も、怒りの感情になるだろう。

~真実の残酷さを知れば、不幸であることは自然なのではないか。とすれば無理に幸福を装って欺瞞的に生きるより、あっさりと不幸を自覚して生きる方がいいのではないか。その方が「よく生きる」ことができるのではないか。~

「不幸であることが自然」というと、仏教の「四苦」を思い出す。「生老病死」すなわち、生きることも、老いることも、病むことも、死ぬことも苦しみなのだ。生きること自体が苦しみなのだ。それが先人の教えだと思うと、妙に納得している。そもそも苦しい、そもそも不幸。そう思って生きること。それでいいと思うが、筆者の言う「その方がよく生きることができる」というのはなぜだろうか。(R5.1/16記)