読書『指導者の条件』Ⅵ

新年度二日目が終わった。明日は入学式準備、あさっては入学式始業式。もうあっという間だ。

指導者論がさらに続く。

~何を目指し、何のためにやるのかということをみずからはっきりもって、それを人々に明らかにしていかなくてはならない。それが指導者の大切な務めだ。~

~要は指導者としての主体性というか主座というものをもたなくてはいけない。指導者としての主座をしっかりと保ちつつ、他人の意見を聞き、ある種の権威を活用していく。そういう指導者であって初めて、それらを真に生かすことができる。~

目標、目的、主座、どれも求めるものは同じようなものだと思う。「ただ従来通り」とか「惰性」とかではいけないのだ。

~天地自然の理に従うというのは、平たく言えば当たり前のことを当たり前にやることである。人間はとかく自分の意欲や感情にとらわれて、その当たり前のことを見忘れてしまう。それだけに指導者たるもの、天地自然の理に従うことを明記しなくてはならない。~

当たり前のことを当たり前にやる。今日の会議でもその言葉が出た。こちらからすれば当たり前でも、子どもにとっては当たり前ではない。当たり前というのはある価値観でしかない。当たり前とは「常識」と言い換えてもいいのだろう。当たり前だと片付けてほしくないこともある。

~自分がこれをやっているのは、一面自分の意志でやったことだが、それだけではない、大きな運命のめぐりあわせによってそうなったのだ。だからこれはいわば自分の天命だと考えるならば、そこに一つの安心感が湧き、少々のことでは動じない度胸といったものが生じてくるのではないかと思う。~

「天職」という言葉がある。その人にしかできない、その人にふさわしい職という意味で使うことが多い。「天命」はそれと違う。自分の意志とは関係のない大きな力が働いてその仕事を任されているのだ。でも安心感は湧くかなあ。覚悟というか、あきらめというか、開き直りのような気分ではないかな。まあ、任されたのだから、とりあえず精一杯やるか、という思いにはなる。(R4.4/4記)