読書『夜と霧』Ⅴ

今朝、仕事に行く前に座禅を行い(最近、座布を購入し、毎朝数分やっている)、その後、昨日の内容を思い出した。「また一日が始まる。でも私が一日に期待するのではない。今日という一日が、私に何を期待しているのだろうか」と考えた。すると、「子どものために尽くすのだ」とすんなりと思考が繋がった。このように考えると、自分に課せられたミッションというか使命を問われているように感じるのだ。

~具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。~

人間は苦しみとともに存在している。ちなみに仏教では生老病死、すべてが苦しみだと考える。老いることも、病むことも、死ぬことも、生きることさえも苦しみなのだ。

~誰もその人から苦しみを取り除くことはできない。誰もその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、二つとない何かを成し遂げるたった一度の可能性はあるのだ。~

だから苦しみからは逃れることはできない。

~わたしたちにとっては、苦しむことですら課題だったのであって、その意味深さにもはや目を閉じようとは思わなかった。わたしたちにとって苦しむことはなにかをなしとげるという性格を帯びていた。~

苦しみから逃れることができないのなら、苦しみを引き受ける。それは成し遂げるということでもあるのだ。(R3.11/16記)