読書『夜と霧』Ⅵ

我々が生きる先には何かが待っている。

~生きることは彼らから何かを期待している。生きていれば、未来に彼らを待っているなにかがある。~

私の未来にも、私を待っている何かがある。それはいいこともあるし、悪いこともあるだろうな。私もかつて「生きたくない」と思うときもあったが、もし生きるのを止めていたら、孫たちにも会えなかったわけだ。「待っている何か」はいろいろだ。だが必ず「何か」は来る。要するに必ず状況が変わる、ということだ。だから、今の苦しみがずっと続くと思ってはならない。

~このひとりひとりの人間に備わっているかけがえのなさは、意識された途端、人間が生きるということ、生き続けるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりとまざまざと気付かせる。~

生きることが責任を果たすこと。その生はかけがえのないものだ。その生を与えられた限りは、自分の生を使い果たす責任も与えられているといえよう。

~自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。~

思うようにいかない仕事だが、その仕事は「自分を待っている」。その仕事をやり遂げる責任があるのだ。それを降りてはならない。やり遂げるために、自分は存在しているということだ。(R3.11/17記)