読書『人生を半分あきらめて生きる』Ⅵ

あの時、あの問題で苦しんでいたのは、やはり。

~「この問題」が望んでいないにもかかわらず、自分の身に降りかかってきたのはなぜなのか。「この問題」が「この私」に「人生のちょうどこの時」に起こったのはなぜなのか。それはいったい「何のために」起きたことなのか。やはり意味があり、必然性があって起きたこと。~

もう理想の教師像を追い求めるのは諦めなさいということだったのだ。自分のためには、それは本当に意味のあることではなかったのだ。自分があきらめられるように、あの問題が、私に必要だったのだ。

~人生の大半は「どうしようもないこと」「なるようにしかならないこと」ばかりだということ。大切なのは、多くのことをあきらめたうえで「にもかかわらず、なおも、本気で生きていく」こと。人生の9割をあきらめざるを得なかったとしても、自分が大切にしたいものを本気で大切にして生きていくと、魂の深いところが満たされて生きます。~

自分が大切にしたいことは、きっと仕事の中にはないのだと思う。仕事のことなど、人生であきらめていい9割に入るのだ。

~「ま、いっか」とつぶやきながら「小さなあきらめ」をうまく重ねていくことこそ、思い通りにならない人生を上手にしのいでいく極意であること、「ま、いっか」は自分と周囲の人々を赦し、大きな安心感をもたらす力があること。~

「許す」のではなく「赦す」。調べてみたら「赦し」とは、怒りや恨み、あるいは、相手を罰したいという感情を手放すこと、とあった。仕事をしていると、どうにも腹が立つことがある。仕事にあきらめきれない自分がいる。

「ま、いっか」はあきらめる言葉なのだ。先程、「大切にしたいことは仕事の中にない」と宣言した。腹の立つ対象を「許さぬ」策略を立て、そして赦そう。(R3.6.30記)