読書『不幸な国の幸福論』Ⅳ

日本人は流されやすい国民なのだ。

~日本人の流されやすさの根底にあるもの。その一つは、日本人というのは非常に好奇心旺盛な国民だということ。それゆえに、古来、他国の文化に興味を持ち、柔軟かつ巧みに取り入れることができた。しかし一方で目の前に現れた珍しいもの、新しいものにひょいと飛びつきがちな性向をときの権力者たちにうまい具合に利用されてきた。~

好奇心旺盛というのが意外な気もするのは井の中の蛙だからだろうか。その性向が、経済成長にも技術発展にも寄与したとも言えよう。飛びつきがち、と言って顕著な例は、「〇〇ダイエット」ともてはやされ、スーパーで一時的に品薄状態になる現象だろう。

~二つ目の要因は日本人の集団主義的な傾向や個を主張しにくい社会にある。集団から外されたり浮くことを怖れていれば、その場の空気や趨勢に流されてしまう。~

「常識的に考えて~」「世間では~」「普通は~」何気なくこれらの言葉を使ってしまう。すべて集団主義志向ワードだ。このワードの脅しが効いてしまうのだ。最近の流行は「絆」だろう。使いようによっては個の主張を封じ、連帯を強制する言葉だ。

~三つ目にして最大の要因は「考えない」が習慣化している人が多いこと。考えない人ほど自分で自分を不幸に追いやってしまいがちだが、社会全体についても言える。人間というのは「どうせ無理」「長いものに巻かれろ」といった気持ちが強まると、それについて考えること自体を止めてしまう傾向がある。~

一例は選挙の投票率の著しい低下だろう。「どうせ自分の一票は政治に反映されない」と思えば自分の票の重さを考えないだろう。

どのように打開するのか、そのカギは?

~「市民」であろうとすることが肝要。市民とは、自分の周りの世界がどう組織されるかは自分の行動にかかっていると、おりにふれて自らに言い聞かせる人間である。市民はときに不正に対して憤り、なんとかしなくてはと思いたって社会に関わっていく。受け身の姿勢では市民の立場を失う。~

市民でなければ、庶民だ。政治家も責任を果たしていないのだろうが、市民もその責任を果たしていない。自分の一票で政治を変えることができると自覚を持ち、一票を投じるという行動に出る。市民、有権者としての責任があるのだ。