読書『不幸な国の幸福論』Ⅴ

幸福だ、不幸だと騒ぐが、どんな状態をそういうのだろうか。

~幸福を定義しようとしてはいけない。幸福について誰かがした定義をそのままうのみにしてもいけない。幸福とはこういうものだと考えた途端、その定義と自分の状態とを引き比べ、何かしらのマイナスを見つけてしまう傾向が私たちにあるから。~

私はコロナの前によく老人保健施設へ歌のボランティアに行っていた。(今は自粛中だが収まればまた再開したい。)そこでは「上を向いて歩こう」「ふるさと」など、弾き語りで懐メロや童謡を歌うのだ。「幸せなら手を叩こう」もレパートリーの一つである。私はその曲の前に問いかける。「みなさんは幸せですか」と。すると、「幸せです」と言い切る方もいれば、複雑な表情をする方もいる。

「幸せですか」という問いはとても複雑なんだな。心の持ちようでもある。

~幸福や不幸なんてものは世の中に存在しない。ただ人間がそういう言葉をつくり、ある状態に対して評価をしているだけ。幸福とは非常に曖昧で多様で流動的なもの。~

自分だって、自分が幸せかどうか分からない。今は平穏だが、今の暮らしが突然崩れてしまうかもしれない。自分だって、自分の家族だって、本当はいつどうなるのかもわからない。すると、健康であることや、豊かな生活ができることが、幸せなのだという定義になる。その定義で本当に正しいのだろうか、とも思う。こうして問うことができること自体、幸せなのかもしれない。

幸せか不幸せかなんて、二者択一で考えてもあまり意味がないのだろう。ただ、不幸だからと自分を追い詰めてしまうことがいけないのだろう。