読書『 日本人の誇り』Ⅶ

「貧しいけれど幸せそう」というかつての日本社会に戻りたいということか。

~占領軍の作った憲法教育基本法で個人の尊厳や個性の尊重ばかりを謳ったから家とか公を大事にしていた国柄が傷ついてしまいました。家や公との強い紐帯から生まれるそれ等への献身と忠誠心こそが戦争における日本人の恐るべき強さの根底にあると見抜いたからです。~

現代の日本に、家や公との強い紐帯があるかと言えば、ないのだろうと思う。家庭にしても地域にしても人々の協力性、連帯は薄いと感じる。だが、それは憲法教育基本法のせいなのだろうか。

例えば、戦前はまだまだ農業の社会だった。農作業も行事も人々の協力なくしてはできなかった。協力せざるを得なかったのだ。だが社会が発達し、工業社会、情報社会と変化すると、紐帯自体が必要でなくなったのではないか。時代が紐帯を求めていないのだ。

~実はこの紐帯こそが「貧しいけれど幸せそう」という稀有の現象の正体だったのです。日本人にとって金とか地位とか名声より、家や近隣や仲間などとのつながりこそが精神の安定をもたらすものであり、幸福の源だったのです。~

「貧しいけれど幸せそう」な社会に憧憬を感じるのはわかる。だが、これだけ我が国が飽食、情報化に突っ走ってきて、そこからの方向転換がどれだけ可能なのだろうか。現在でも貧しい国では人身売買、紛争などたくさんの問題を抱えている。一度甘い汁を味わった我々が、どれだけ清貧な生活に変えていけるか、疑問である。

~個より公、金より徳、競争より和、主張するより察する、惻隠やもののあはれなどを美しいと感ずる我が文明は「貧しくともみな幸せそう」という古今未曾有の社会を作った文明なのです。~

だが、これ以上、富を求めようととしてもだめだということはわかる。