読書『 いじめ・自殺 この30年で何が変わり、何が変わらないのか』Ⅲ

学校でいじめが起きないために、教育はどのように関わってきただろうか。

~社会における人間関係の中において、自分がどのような原石であり、どういう傾向を持っていて、どのようになっていくのがよいのかということ、あるいはどのようになっていくべきかということを考えさせ、考えるために体験させる。それに向けての教育が果たしてなされてきただろうか。~

なされてきただろうかと問われれば、全くなされていない、となる。これまでの学校教育の歴史でも悲惨ないじめ事件が幾度も発生しているが、だからといってカリキュラムそのものが見直されたわけではない。いじめ対策に取り組んでいないわけではない。一年に何度も「いじめアンケート」や教育相談を行い、いじめの有無を調べ、対応や解決をする。いわば対処療法だ。いじめが病だとすれば、発見・治療はするが、病にかからない健康な体づくりを目指すような取り組みではない。

~私は何者であるか、こういう場面で何をどのようにする存在なのか、その自分をどのように示し、どのように社会の中で機能させていくべきか、こういう具体論や方法論において、学習も契機もなく、活かすこともなく、また評価する場もないことが、この国の子どもだけでなく大人の置かれている現実というもの。~

どこかの国では、「私は何者か」という問いをとても大切にする、と読んだことがある。日常的に問いかけていると。「自分を見つめる」と言い換えてもいい。「私は何者であるか」という問いかけが足りなさすぎる。というか、情報の氾濫、日常のせわしさ、煩雑さでかき消されているのか。