読書『ビジネスエリートの新論語』Ⅱ

私が本書を読んで感心したのは、組合に関する記述があるからだ。

~大切なのは公憤だ。正しい合理精神から判断した結論をほんのチョッピリでもいいから、組合という公憤の機関に反影させることだ。いまは公憤の代行機関として組合というものがある。これを正しく運営する以外、卑小因循なサラリーマンの職業人格と職場は改造されっこあるまい。~

「公憤」とは、社会の悪に対して、自分の利害をこえて感じる憤りのこと。私は組合に所属している。わが国の特徴である企業内組合とは一線を画す少数派の組合だ。教育委員会や学校管理職に対し、交渉も行っている。われらの権利を守るために活動しているのだが、取り上げる問題は「公憤」と呼べるものもあるはずだ。問題に対し、正しい合理精神に基づいて結論を出し、社会の悪と戦うことができるのだ。

「因循」とは、古い習慣や方法などに従うばかりで、それを一向に改めようとしないこと。また、そのさま。我々の職業でも筆者から「卑小因循」と呼ばれるような人物はいないだろうか。私も組合を正しく運営し、職業人格と職場を改造できるのだ。

~それじゃ、いつまで経ってもサラリーマンの職場は明るくならない。組合のない、もしくは有名無実である職場ほど、人事面や職制面の不合理が多く、じめじめといつも暗いカゲグチや不満が不燃焼のままくすぶっている。組合は、こうした職場の不合理を排除するブルドーザーでもあるのだ。健実な組合活動は、明るい職場を作る。自然、能率を向上させることになるから、非組合的態度が、かならずしもお家に忠ということにならないことをどのサラリーマンも考えてみる必要があるだろう。~

「ブルドーザー」。なんていい表現なのだろう。私がかつて所属していた主流派の組合は、定期大会に管理職を来賓として招待するなど、わけのわからない団体である。「ほうき」にもならない。

しかし、この著書は1955年発刊。筆者が認識しているほど、今や労働団体、組合の力は強くない。非正規が増え、組織率も下がり、労働者の立場は本当に弱くなってしまった。筆者から、新たなエールを聞きたい気分だ。