読書9‐6『日本人はいつから働きすぎになったのか』Ⅱ

かつての自分は洗脳されていたのだろうか

冷たい雨の一日。合羽を着て自転車に乗って職場を出る。晩飯のおかずを思案して遠回りしてスーパーに立ち寄る。だがナップサックの中の財布がない。ああ、入れ忘れたのか。店内をうろつくも、もちろん何も買うこともできず。金がなければどうにもならない。

アメリカ人は、「野球帽をかぶれ」という指示なら従うが、「野球帽をかぶりたくなれ」という指示には従わない。アメリカを理解するためには「強制的」と「自発的」の違いを理解しなければならない。日本人はこの2つを混同している。~

アメリカに進出した自動車メーカーの工場の出来事。アメリカ人は作業着は指示通り着たのだが、指示されていない野球帽は誰一人かぶらなかった。日本人ならば、指示されていないのに皆がかぶるのに、という話だ。

アメリカの労働者は命じられてもいないのに「自分から」野球帽をかぶることはしなかった。彼ら労働者は「野球帽を自発的にかぶりたいと思うようになれ」という指示として受け止めた。このことは彼らが最初から「自発的隷従」という発想を持っていなかったことを物語っている。彼ら労働者はこの指示を「強制的な自発性」と呼んでいた。~

自分自身の話だ。そもそも管理職からどんな命令をされているのか知らない。〇年〇組担任として担任業務をしなさい、程度である。学年主任などの先輩の仕事ぶりを見て学び、少しずつ経験を積んできた。なんとなく、同僚に負けたくない、能力が高いと見られたいという気持ちが芽生え、気づいた時には、勤務時間、休日度外視で働いていた。指示など何もなく、自発的に「良い先生、良い授業、良い学級」を目指していた。

~自ら進んで会社に忠誠をつくし、自ら進んでハードに働く労働者が多いからこそ、過労死が生じるのである。まさに今日、労働者が会社に「自発的に隷従している」事態が生じていると言っても過言ではない。~

ある意味、洗脳されていたのだろう。狂ったように理想を追い求める姿は「洗脳」という言葉にふさわしい。しかし、自分が洗脳されていたとしたら、洗脳したのは誰なのだろう。(R6.2/5記)