読書9-2『新しい幸福論』Ⅲ

私は疲れたというよりも、ばかばかしくなったのだ

夜中に目を覚まし、前日自分がミスをしてしまったのではないかと不安になった。「職場に行けば後処理が待っている」とか「相手方にすぐ電話をして謝罪するしかない」などと考えを巡らせた。職場につき、確認してみたら、それは全くの杞憂だった。

~そこそこ経済が豊かになったので、すべての人が一つの目標に向かってまっしぐらという風潮は弱くなった。~

高度経済成長期を終え、先進国に上り詰めた。だが再び我が国は衰退し、豊かさは失われつつある。そんなとき、我が国はまた目標に向かってまっしぐらとなるのかな。

~一生懸命働くことに価値を感じていたが、そのことに「疲れ」を感じる人が出現したのである。~

病気休職する二、三年前だったと思う。仕事では、民間教育研究団体に入り運営委員となって大会で発表、組合では長となって交渉などに参加し、休日は、バンド活動、歌のボランティア、映画、サッカー観戦にいそしんでいた。それでも飽き足らず、「昨年よりももっとよい実践を」「もっとよい活動成果を」「もっとたくさんの映画を」と追い求めていた。そのために努力する自信もあった。だが内心、「こうやって追い求め続けたらどうなるのだろう」と一抹の不安もあった。不安は的中することになる。

~拝金主義につながっているのではないか、お金ばかり稼いでどのような徳があるのかと思う人が登場する一方、ただただ人の命令で働かされているだけにすぎないことの「むなしさ」を感じる人も登場したのである。~

自分は公務員なので、拝金主義とか、金ばかり稼いで、という意識はなかった。ただ仕事で、他人から一目置かれたいとか、尊敬のまなざしで見られたいという下心はあった。(R5.12/14記)