読書9‐1『ひとりぼっちを笑うな』Ⅳ

たかが仕事、しょせん仕事

最近なぜだろう。意識していることがある。朝目覚めて今日の始まりを確認した時、「今日も一日もうけた」、「今日も、命をあたえられた」と思うようにしている。一日の始まりを決して後ろ向きには捉えない。

仕事に対する考え方がまた続く。

~仕事があってご飯を食べることができて、暖かい布団で寝ることができる。好きな趣味にもお金が使える。ぼくはそれだけで人生の自由を満喫できますよ。~

仕事、ご飯、布団、趣味。ああ私もすべてあてはまってしまう。自分は自由なのだ。それを満喫しているだろうか。

~結局「向いている、向いていない」なんてどうでもいいんですよ。その仕事があっていようがいまいが、どの仕事も自分ではそこそこ上手くやってきたと思っているんです。所詮お金をもらう手段が仕事じゃないですか。~

「たかが仕事、どうでもいいこと」と言ったのは出口治明氏である。所詮仕事というのも同じ意味だ。

~お金のためならなんでもしますよ!っていうくらいの気持ちはある。でも仕事って本来、そういうものなんじゃないかな?いやその程度のものと言ってもいいかもしれない。「仕事は自己表現する場」なんて思考はよく理解できない。自分の自由時間の方がよっぽど大事。その自由のために働いていると言っても過言ではありません。~

仕事は自己表現の場、仕事で自己実現しよう、という気持ちはよくわかる。数年前まで私もそのクチだったから。でも使用者は、各自の自己実現のために報酬を用意しているわけではないんだよね。それがわかるのに30年以上もかかったのだ。ただ、教職という仕事は「お金をもらうためにやっている」とはなかなか言いづらい仕事だとは思う。(R5.12/8記)