読書8-16『文明としての教育』13

今日は何か力んで空回りしてしまう部分があったな。一年の後半を迎え、ある程度思い通りになっていて、それに酔っている部分がありやしないか。調子に乗っていると足元すくわれるのはどこの世界でも同じ。今日もあくせく働いた一日だった。割り振りを取って帰ってもすぐに立ち上がれなかった。

~教育は人間が人間に対して行う営みであって、そこでは教え教えられる人間の熱い積極性が大切だからです。報酬の分だけ働くとか、対価の分だけ商品を渡すという考え方ではなくて、そこに何らかの精神的な迫力が加わらなければ人は人を教えられないのです。~

筆者は「報酬の分だけ働く」「対価の分だけ商品を渡す」をノーブレスオブリージュと対極に考えているのだろう。報酬の分だけしか働かない輩を、教える者としてふさわしくないと考えているのだろう。だが、私はそこを挑戦したい。報酬の分だけしか働かなくても、教師としてやっていけることを証明したい。なお、私の言う「報酬の分だけ」というのは、勤務時間を越えても残業代が発生しないのだから、「勤務時間内しか働かない」という意味である。勤務時間内であっても、精神的な迫力は加えられると思っている。

~「教師は労働者である」などという愚かな標語のもとで、じつは労働者としての誇りや規律さえかなぐり捨てた教師の姿がありました。近年では社会の側に誤解が広がり、先生に適切な敬意を表さない親が散見されます。~

「教師は労働者」は愚かな標語であろうか。それはまぎれもなく事実でしかない。労働者だからこそ、勤務時間を守り、その中で最上のパフォーマンスを発揮しなくてはならない。それに対し、親がどう敬意を表そうと気にしない。(R5.11/15記)