読書8-16『文明としての教育』14

今日はジョギング通勤。数々の関門をくぐりぬけて多忙な一日が終わる。そういえば「精神的な迫力」を意識するんだっけ。それは忘れてしまったが、それでも全力で働きました。

~まじめに苦労する先生たちの姿を大きくクローズアップしてもらえば、まずは社会も安心するし、先生たちのノーブレスオブリージュの感覚も確実に高まると信じられるから、メディアの肯定的な評価が重要なのです。~

私も以前思ったことがあった。テレビ局などがもっと学校の日常に注目して、頻繁に学校の出来事をニュースにしてくれれば、学校は今よりもっと開かれたものになり、学校で生じる問題も減るのではないだろうか。いじめも、学級崩壊も、問題行動も、教室という閉じられた空間で生じるのだ。が、そんなのは儚い夢だ。人間というものは、他人のハッピーには興味がないのだ。誰かの失敗にしか注目しないのだ。

~義務教育が子どもの個性のためにできることは最大限でも子どもに必要な知識と思考能力を与え、彼らが自分で自分の意欲と可能性を発見する準備をさせることでしょう。~

~サービスとしての教育は受益者の自発的な希求、積極的な服従の態度がなければ成り立つものではありません。~

どうすれば、受益者が教育に自発的な希求をするだろう。教師に「子どもが興味・関心を高め、意欲的に活動するように、研究や工夫をしろ」と言われて終わるような気がする。どうすれば子どもが教師に対し積極的な服従をするだろう。教師に「スーパーマンになれ」と言われて終わるような気がする。(R5.11/16記)