読書7-17『森田療法』Ⅱ

今日は休日である。朝からゆっくりできている。

~精神活動を与えられた人間は、「いかに生きるか」という自らが生きるための方向性と目的性を持つようになった。人間は生きるための強い欲望の上に、いかにという己の生き方に対する反省的であると同時に、生産的な欲望を持つようになったのである。~

ある芸人の言葉に「生きているだけでまるもうけ」というのがある。失敗や不幸のあった者に言い聞かせ、元気づける、なぐさめる言葉だと捉えている。昔は、生きているだけでも、生き抜くだけでも精いっぱいだったのに、世の中が安定してくると、高みを望んでしまうのだ。「もっといい暮らしがしたい」とか、「みんなから認められたい、一目置かれたい」みたいな。

~森田は神経質者は「生の欲望」が強いと考えるが、これは森田の言う完全欲へのとらわれと通ずるものであり、神経質者はより理想主義的に自己目的を求めようとする。~

私も数年前まで「いい授業がしたい」「周囲から認められたい」という欲望にまみれていた。でも、自分がそう欲しているだけで、誰かがそれを望んでいるわけではない。独りよがりだったのだ。自分に求められているのは、雇用契約を結んでいる内容、それ以上でも以下でもない。

~人生には良いことも悪いことも不条理なことも様々なことがたくさん存在するのであって、現存の生活が複雑で灰色の状態であるということをふまえたうえで、なおかつその中で自分はこのように生きるというように、一つの生き方を貫き、その生き方がまた、何らかの形で社会の利益に結び付くとき、本当に一個の人間として理想に向かって生きているとか、純粋な生き方をしているといえるのではないだろうか。~

その頃は、仕事で失敗するとか、うまく回らないことが許せなかった。努力すればどうにでもなると思っていた。だが、そうではないのだ。手の届かないところから、幸不幸はやってくるのだ。今となればわかるのだけど、自分の身に降りかからなければわからないことかもしれない。(R5.3/21記)