読書7-6『子どもに勉強を教えるな』Ⅱ

筆者は、学校が信用できない。その要因を2つ挙げている。

~学校が信用できないひとつの要因に、教える現場が完全に「サービス業化」していることがあげられます。~

一つ思い当たることがある。10年以上前くらいだろうか。「学力低下」が問題になり、文科省など当局が「行事の削減、精選」を謳ったことがあった。実際に学校組織にも行事検討委員会が設置され、それこそ年に2回あった運動会が1回になったり、遠足などの行事が消えたりしていった。それに対して、保護者からは反発ではなくとも批判的な声があがった。私は「親は子どもに賢くなってほしくないのだろうか」と何度も思ったものだ。保護者は、子どもに対し、学力を身につけてほしいというより、楽しく学校生活を送ってほしい、良い思い出を作ってほしいと思っているのではないだろうか。親は、教師が思っている以上に、学校は、勉強を教わる場所、学ぶ場所ではなく、勉強を中心とした生活サービスを受ける場所と思っているのだろう。

毎年、子どもや保護者に学校アンケートを行っている。その第1問は「学校は楽しいですか」である。まず何を差し置いても、学校は楽しくなくてはならないのだ。私は、教師は勉強を教えるために存在していると思っているので、このスタンスは受け入れがたいものがある。

~今、先生の視線は子どもではなく親に向かっています。𠮟責も子どもを成長させる上では大切なものです。にもかかわらず、サービス業化している学校では、親の顔色を気にして子どもを「お客様」扱いしているのです。~

親の顔色を気にして、というとよい表現ではないが、それはある意味当然とも言える。なぜなら、親は、子どもに教育を受けさせるという義務を果たさなくてはならない。先生の視線が子どもではなく親に向かっている、というより、子どもを通して親の姿を見ているといった方がいい。

~信用してはならないもうひとつの大きな要因はマニュアル化された「一斉授業」を行っているからです。すべての子に対して同じことを教える一斉授業で、とても子どもの能力を伸ばすことなどできません。一人ひとりのつまずきを待ってはくれないのです。~

信用してもらえないだろうが、30人以上の子どもを同時に相手にするのだから、「一斉授業」をせざるを得ない。我が国が決めた学校というシステムはそういう性格なのである。(R4.11/27記)