読書7-3『「こころ」の本質とは何か』Ⅵ

学校について、教育について記されている。

~近代社会の中で、人々はより大きくより抽象性の高い共同体の中を生きるようになりました。大きな共同性を支えてゆくためには、あらためて様々な認識(規範や知識)が共同体の構成員全体によって共有されることが必要になります。そのあらたな「習得」のために生み出されたのが公教育システム、すなわち近代の「学校」だったと考えられます。~

19世紀後半、明治時代が始まり、新しい世の中となって学制が発布された。新たな認識や価値観が必要とされたのだろう。そして20世紀半ば、我が国は大きな戦争に負けて、新たな国づくりを強いられた。憲法教育基本法が発令され、学校教育も戦前から一新された。時代の変化によって教育の形は大きく変わらねばならない。敗戦からもうすぐ80年。大きな外圧がなかったからか、これまで小手先の変革にとどまってきたが、本当はもう制度疲労ならぬ制度壊死となっており、大きな改革が必要なのではないだろうか。

~貧しく苦しい現状から少しでも豊かな未来へと自分たちを導いてくれるという夢を担った場所、すなわち此岸から彼岸への貴重な門戸として、学校は一種の聖性・絶対性を民衆の側から自ずと賦与されたのです。情報に乏しい社会では、学校は「知」の世界へとアクセスできるかけがえない回路としても絶対性をもちました。~

現在の学校は「豊かな未来へと導いてくれる」存在ではない。そもそも学ぶ子ども、保護者に「貧しさ苦しさ」が共有されていない。一億総中流社会を経て、みんな満たされてしまったのだ。かつてあった「聖性・絶対性」などかけらもないし、「義務教育」など邪魔くさいものとしか思っていない子どもも多数いるだろう。さらには「知」の世界にも「痴」の世界にもアクセスできるスマホで飼いならされる。

ああ、本当は明治維新よりも太平洋戦争よりも甚大な波をかぶっているのではないだろうか。(R4.10/29記)