読書7-3『「こころ」の本質とは何か』13

今回でようやく最後だ。

~学校は人々の共同意識(公共意識)からの信や支えに代えて、サービス産業モデルへの依拠によって、社会的な共同性を子どもたちに育む力を再生してゆけるのかどうか。つまり、共同性によって支えられていない制度で共同性を育むことは可能か、ですね。~

現状で、社会的な共同性を育むことができるとは思えない。社会的な共同性を育むためには、もっと学校が地域に密着しなければだめだ。地域という共同体とのつながりをもっと深めるべきだ。例えば運動会の通学団対抗リレー、資源回収、地域教材を積極的に使う学習などなど。が、文科省からは授業時間を増やされ、英語教育、プログラミング教育など新しい内容が次々と盛り込まれている。地域の教育力が弱まるとともに、行事の削減で地域とのつながりも減っている。地域に密着した教育は夢のまた夢だ。

~子どもの社会的な共同体験は学校生活にほとんどゆだねられるようになっています。学校を価値として支える社会的な思い入れは下がる一方なのに、学校への社会の依存は増している。これも現行の学校が強いられている矛盾です。~

~私たちがであっているのは、私たち自身が社会人、社会的存在としてどのような共同世界を構築して共有してゆかんとしているのか、そのうえで子どもたちに何を教え伝え、継承させてゆきたいと願っているのか、という問題だとわかってきます。~

どのような共同世界を構築していくのか、それは即答できないが、自分くらいの年齢になったら、本当はもっと地域への貢献を考えなくてはいけないのかもしれない。自分は、正直、個人と家族というとても狭い間柄にしか視野にないのだ。社会的存在いうにはあまりにもせまい。それはやはり、「共同世界の構築」という意識をこれまで持ってこなかったことにもよる。いっぱしの人間になるには、まだまだ修行がいるようだ。(R4.11/10記)