読書7-3『「こころ」の本質とは何か』Ⅸ

学校から聖性・絶対性が失われたことについて、まだ続く。

~70年代、高度消費社会の実現とともに、聖性・絶対性が学校からすっかり失われました。これは「学問」や「教育」というもの、〈知〉というものに人々が賦与していた聖性の喪失にそのままつながりました。~

~子どもたちの側から見ると、すでに豊かになり、多くのものが所与のものになった社会では、もう学校で勉強に汗しても未来がグレードアップされる可能性はさほど見込めません。~

私はもうこの頃は子どもに学力をつけることにそれほど熱心になれない。読み書き計算以外は、子供の将来に役に立つとは思えないのだ。そのことも、私がまったく時間外勤務をしないでいられる理由でもある。きっと他の先生は、教科書をきちんと教えることや、テストの点数を上げることに躍起になっているのではないか。そういう先生こそ、一度、学校社会、教員社会から一歩離れて、学校というものを見るがよい。知らないから、意味もないことに必死になっているのかもしれない。

~学業に積極的にはげむ意義が少なからぬ子どもたちの心から喪われました。さらに消費産業を基幹とする社会では、学校で得る共同行動・集団行動のスキルは実社会での一般的な労働や生活とのつながりもなくしています。こうして学校は、人々の「夢」を引き寄せることができなくなったのです。~

学校の良さは、学力だけでなく、集団の規律、社会性を身につけることにもある。そう考える人も多い。しかしそれは諸刃の剣であって、学校でのそういった指導が同調圧力を生み、自己主張ができなくなったり、個性を伸長できなくなったり、失敗を恐れずに挑戦する気持ちが持てなくなったりもしているのだ。

~「学問」は価値があり教養は捨てたものではないと説いても、社会の中で〈知〉の聖性がすでに失せているのですから、説得力がないですね。子どもたちも個人レベルで「役に立たない勉強に努力は払えない」と感じているだけです。~

私は「勉強を頑張りなさい」とも言うが、「楽しめ」とも言う。学校だからと言って一日中自分を制限する必要はない。予定している勉強をこなせば、他に迷惑をかけない限りは、楽しんでくれればいいと思っている。(R4.11/3記)