読書『静思のすすめ』Ⅸ

先週、今週と身辺でトラブルが起こっている。その後処理に追われているが、それでも悲観的にならずに、前向きでいられている。それこそ「歓宿縁」と受け止められているのかもしれない。

~私達は今生の命、体を頂いたときに我を宿しているのです。その我に何の訓練も施さずに生きてしまうと私たちは相手の事など一切考慮せず、相手を傷つけても自分の思いを通そうと生きるようになってしまうのです。~

「我」は「われ。自分。自我」という意味もあれば「自分の意志や考えを言い張って、人の言葉に従わないこと。わがまま」もある。きっと後者だろう。この訓練こそ、「静思」なのだろう。

~自分が先祖となる自覚が出来たとき、先祖となる身として、何を子孫に伝え、残さねばならないのか、そこが大切。自分が一生懸命に生きて、そして学んだことを全力で人に伝えることによって、時間、空間を超えて自分の学びを子孫に役立てるのならば、そんな幸せなことはない。自分という人間が存在したことによって後世の人の幸せや笑顔のお手伝いができるのではないか。生きている自分だけを意識するのではなく、先祖となる自分をも意識して生きていること。~

恥ずかしい話だが、自分自身、祖父母や親からこれといって学んだものがない。こんなふうに思ってしまうのは傲慢なのかもしれないが。もちろん育ててもらって感謝はしているけど。

私もあくせく働いて日々が過ぎていくばかりで、学んだことを伝えるなんて思いもつかなかった。先祖となる自覚なんてないけど、子や孫にはできる限りのことをしてやりたいと思う。子孫に役立ちたいと思う。