読書『人生を半分あきらめて生きる』Ⅳ

あきらめる、というのは一歩引いて眺めるという意味もあるのかもしれない。

~「脱同一化」自分の中から生まれてくるすべての想念に対して、それがどんなものであれ、すべて「ただ、そのまま認めて眺める」姿勢=「観」の姿勢を保ち続けることで、どんなにつらく激しい気持ちであれ、それは自分自身とイコールではなく、自分の一部でしかないことを自覚的に体得していく方法。~

そういえば私は、出口治明氏の「仕事は人生の2割強でしかない」という言葉にハッとさせられたことがある。自分は仕事でうまくいかなかったことを「自分に裏切られた」「すべてを賭けた努力が無駄になった」と思い悩んでいたのだ。仕事は自分の人生のすべてではない。冷静に、客観的に見れば当然だ。眺めてみることが必要なのだ。

~「たった一つでもいい、心から大切だと思える思い出が一つでもあるならば人は自分の人生の深いところで肯定することができるはずだ」(カラマーゾフの兄弟)~

少し前だが、卒業を見届け何年もたった教え子から手紙が来た。その手紙は肌身離さず持っている。このたった一つで、満足している。もうこれ以上欲深く、自分を成長させようとか、成功しようとか、よい評価を受けようとは思わない。

~「ただ生きているだけで、それでいい」と心から思えたら、どんなにいいだろう。これは無条件の「自己受容」です。~

すべてそう思えるなんて難しいだろうな。職場に行ったら多忙の歯車に回されることになるだろう。せめて、休日くらい「生きているだけでいい」という気持ちでありたい。

(R3.6.26記)