読書『「こころ」の本質とは何か』後半

★豊かな社会となり、学校の求心力は失われた
 では、なぜ聖性や絶対性は失われたのでしょうか。

「70年代、高度消費社会の実現と共に、聖性、絶対性が学校から失われました」「子どもたちの側からみると、すでに豊かになり、多くのものが所与のものになった社会では、もう学校で勉強に汗しても未来がグレードアップする可能性は見込めません。」「だれしも高校進学が叶い、進学が当たり前になってしまえばそれは子どもたちにとって能動的・主体的な努力目標・夢ではなくなります」
 豊かな文明社会が実現したことで、子どもに、学校に行く価値、勉強する価値が見出せなくなったというわけです。学校制度は成功し、学校教育は達成されたのです。ということは、学校は役割を終えたということでしょう。
★どんなカリキュラムでも、落ちこぼれはなくならない
「学校の教育システムは非合理で矛盾をはらんでいます。かならず落ちこぼれる児童生徒が出てきます」「認識というこころのはたらきには個人差があるため、子どもたちの認識をさらに社会的に伸ばそうとする〈教育〉という営みを集団授業で推し進めることは必ず矛盾を生み出します。」

落ちこぼれる子どもが出るのは、教師の努力や能力以前にシステムの矛盾だということです。
 私も「どの子にも確かな学力を」と民間教育研究団体で学んだり、教育書を買いあさったりして自己研磨に励んだ時がありました。しかし、システム自体に問題があり、それが変わらなければ、その努力も成果として報われることは少ないのかもしれません。とはいえ、学校というシステムが変わることに期待はできません。なぜなら、現政権や世間の関心は、まずは経済、次に外交、そして社会福祉といったところでしょう。学校制度が根本的な見直しを迎えるのは、いつになるのでしょうか。