読書7-3『「こころ」の本質とは何か』Ⅹ

前回少しふれた集団性についても書かれていた。

~個々人の欲求と個人意識とが繊細かつ鋭敏化した現在において、学校の集団性は子ども同士に共同意識を涵養するよりも、対人葛藤や傷つきをもたらす場となりやすくなりました。それに耐えてまで学校に行って得られるもの、それが子どもたちに見えなくなっているわけですね。~

自分の小学時代もいじめは存在していた。私もいじめられたし、正直いじめたこともあった。いじめが増えたというより、いじめを取り巻く時代が変わったのだ。いじめの存在を薄めるような、学校の魅力や学習することの意味が失われたということだ。

なおも続く。

~学校の教育システムはもともと非合理で矛盾をはらんでいます。教室の全員に過不足のない授業を毎回続けてゆくのは誰にも不可能です。必ず落ちこぼれる児童生徒が出てきます。どんなカリキュラムを選んでもどう教員が努力してもこれは防げません。~

ずっとずっと前から、教員は落ちこぼれをなくそうとして勤務時間など構うことなく授業研究に没頭してきた。全員がわかる、楽しい授業を目指して。その楽園があると、その境地があると信じて努力してきた。

~認識というこころのはたらきには個人差があるため、子どもたちの認識を社会的に伸ばそうとする「教育」といういとなみを集団授業でおしすすめることは、かならず矛盾を生み出します。~

本当はうすうす気づいているのだ。だが、だれも教えてくれないのだ。校長は言わない。市教委だって言わない。それを言った時点で、みなが努力を止めるかもしれないからだろう。やはり、教員自身が自分で気づくしかないのだ。(R4.11/4記)