歌ボラ『C施設』

自分の実力以上のものを引き出してくれる方々

歌ボラ『C施設』モーリスW‐120R

曲目:夕焼け小焼け/シャボン玉/(以上ハーモニカ)/バラが咲いた/上を向いて歩こう/一杯のコーヒーから/ちょうちょ/朧月夜/花/七つの子/幸せなら手を叩こう/お富さん/古城/赤胴鈴之助/夜明けのスキャット365歩のマーチ/ふるさと/アンコール:青い山脈

1時20分に家を出て、開始15分前に到着。結構ギリギリになってしまった。すでに利用者さんたちは陣を整えて私を待ち受けていたかのように見えた。てきぱきと準備をして、すぐに始める。

『バラ』『上を』は職員さんが歌詞コピーを配ってくれたからか、皆さん、本当によく歌う。歌が好きなのだなあ。その流れで『一杯』そして童謡も歌ってくれた。そして、私の語りも毎度同じなのだが、「山がないのに」「嫁さんは一人」などでよく笑ってくれる。だからこっちの舌も滑らかになる。

それ以降の曲も利用者さんは楽しんでくれた。歌声も手拍子も、ノリがよく受けがいいので、私も自分の実力が2割増しほどになった気分である。この施設の方々が私の実力以上の演奏を引き出してくれるのだ。こういう施設を私は大切にしなくてはならない。

次のC施設訪問は5月25日。次の歌ボラはO施設、4月27日。

読書9‐11『がんばると迷惑な人』Ⅺ

学校発の全員主義、平等主義が野心を駆逐する

助走の一週間、慣らしの一週間が終わった。来週から平常日課、てんこ盛りの日常が始まる。今日も昼過ぎに子どもは下校しているのに、全くの働きづめだった。結局、一部の仕事をやり残して、割り振りを取って帰る。

~たとえ仕事そのものは楽しくなくても夢や目標があれば知恵を振り絞って少しでも良い結果を出そうとします。夢や目標の魅力がワクワクさせ、やる気にさせるのです。夢や目標がモチベーションの源泉だったのでしょう。~

組合の幹部をしている。時に労働相談に乗ることがあるが、その中で「部活動指導の押し付け」問題がある。部活動はご存知のように長時間労働の要因となっており、顧問になるかどうかは教員にとって大きな問題だ。教員との面接で「体を張ってでもやれ」と脅したり「名前だけでも入れさせてほしい」と泣きついたりする管理職がいる。

~夢や目標が「青天井」であることが大事なポイントです。果てしない夢や目標は「野心」と言い換えられます。野心さえあれば、放っておいてもその実現のために質の高い努力をするのです。~

要するにパワハラであるのだが、なぜ、その管理職は、部活動指導の魅力を語らないのだろう。そんなに必要で、そんなに素晴らしいのなら、なぜ部活動指導の夢を語らないのだろうか。きっと自分も指導者として懸命に取り組んだ時代があっただろうに。夢を語り切ることができない、説得ができないということは、大したことのない活動だということだ。

~野心を抱かせるものが我が国では著しく不足しています。それはおそらく平等社会で格差が受け入れられ難く、個人が突出したり目だったりさせないようにしてきたからでしょう。逆にがんばることはだれにもできるので頑張りを称えるようになったという見方もできます。学校教育はその最たるものです。~

最後の一文は、痛いところを突いている。学校こそが全員主義であり平等主義なのだ。「個性を大切に」という言葉が一時期謳われたが、その意味を分かっている教師はいないと思う。私もわがままをしている子どもに「みんな〇〇だよ」と他に倣うことを強制するような言葉がけをしてしまいそうになる。みんなと足並みをそろえるように勧めてしまいそうになる。それがどっぷりと染みついているのだ。(R6.4/12記)

読書9‐11『がんばると迷惑な人』Ⅹ

「全力」「精一杯」で終始してたら進歩ないよね

仕事から解放され久しぶりにゆっくりできる日。カフェに立ち寄り、ゆずシトラスティーを注文し、小1時間の読書。帰宅し、洗濯物干し、料理、歌ボラの練習をする。

~会社や役所でもただ成果を上げるだけでは不十分で一人ひとりが持っている能力を100%、いや120%発揮するように求められます。常に最大限の努力が求められるという意味では、無間地獄のような厳しさがあります。裏を返せばたとえ成果が上がらなくても「全力」で「精一杯」努力すればよいわけです。~

学校教育でも「全力」「力いっぱい」は合言葉と化している。「全力」を出し切らないのは「態度が悪い」と捉える傾向がある。教師は子どもに、何事にも一心に取り組む姿を求める。その姿に美しさを見出すのだ。学校で習うことなど、そんなに高度ではない。全力出させればだいたいなんとかなってしまうものなのだ。全力で漢字を反復練習させる。全力で九九を暗唱させる。ほぼ根性論で通ってしまうのが学校教育だ。

~がんばることそのものには何の価値もありません。にもかかわらずがんばりに甘い社会や組織はがんばることを自己目的化させてしまいます。そして努力の質は劣化し、社会も組織も衰退していくでしょう。~

それでほぼ義務教育までくらいは通用するだろう。だが、それ以降は「努力や根性ではなんともならない世界」が待っている。努力だけではなんともならない。才能や運命、幸不幸などからんでくる。だから一般社会で、「がんばり」を求めたり認めたりするのは、もしかしたら幼いこと、学生時代から進歩ないことなのかもしれない。

~どれだけ仕事に時間とエネルギーを投入できるか、私生活を犠牲にできるかが問われる社会を変えなければ女性の活躍も絵に描いた餅で終わることを肝に銘じておくべきでしょう。~

「全力」とか「精一杯」というのは万策尽きた最後の手段だと思った方がいいのかも。(R6.4/11記)

 

読書9‐11『がんばると迷惑な人』Ⅸ

効率性を高めるなら制約条件の設定が必須

給食が始まったが4時間授業。子どもが帰ったらすぐに会議。その後も年度当初の事務や打ち合わせで時間を費やす。いつの間にか休憩時間になる。一人になって読書をして過ごす。職員室の喧騒の中、仕事を積み残したまま、勤務終了時間に職場を出る。「明日、なんとかすればいい」

~我が国の社会や組織に特徴的なポリシーと言えば、全力主義と並んで「完璧主義」が挙げられます。事故にしても、ミスにしても、犯罪にしても、一定の確率で発生するものですから数が多くなればゼロにするなど不可能です。~

日本人の特質といえば「勤勉」。「勤勉」を突き詰めれば全力主義にも、完璧主義にもなるのであろう。それは勤勉の成れの果てだ。

~完璧を追究することのメリットとコストを天秤にかけるといった現実的合理的な考え方をしないのです。そのため事の軽重を判断し、仕事に優先順位をつけて一定の制約条件のなかで効率的にこなすこともできないのです。ですからどうでもよいところにも時間とエネルギーを費やす一方、大事なところが中途半端になる。~

「制約条件」を設定することは大切だ。私の場合でいえば勤務開始終了時間だ。どれだけ課せられた仕事があっても、勤務時間を超えることはできない。そうなれば絶対に仕事に優先順位を着けざるを得ない。例えば、私は週案を書かない。優先順位を着ければ、書くことを断念せざるを得ないのだ。定額働かせ放題なのがおかしいのだ。

~そもそも完璧を目指して頑張るというのは典型的な工業社会の発想です。完璧な仕事こそ機械やコンピュータが得意とするところなのです。だとしたら完璧が求められる仕事はできるかぎり機械やコンピューターに任せたらよいのです。~

コンピュータに任せられるものはどんどん任せていく。そういう意識がなくても、どんどん淘汰されていくのだろう。(R6.4/10記)

読書9‐11『がんばると迷惑な人』Ⅷ

生産性を高めよう、労働時間を守ろうなんて意識は皆無

朝から土砂降りの雨。だが合羽を着てジョギングをしながら通勤する。新しく受け持った子たちとの学習が始まった。間合いを図りながら、勉強の手助けをする。まだまだ手探り状態である。午前中3時間はあっという間に過ぎる。

~年間総実労働時間を国別に見ると、我が国は1747時間で、フランス、ドイツ、オランダに比べると3割ほど多く働いている計算になります。我が国では非正規従業員の比率が全体の三分の一以上を占め他国に比べて著しく高いという特徴があります。彼らを除いた正規従業員の年間総労働時間を見ると2018時間にもなります。~

私の場合は1日8時間、授業日が200日とすると、1600時間だ。それでも欧州を上回っている。私の職場では他の皆さんはもっともっと働いている。自分たちの労働時間が、世界の中でも突出しているということを知っているのか知らないのか。そういう問題意識は持っていないと見える。

~我が国では労働時間の短縮が以前からほとんど進んでいないのです。週49時間以上働く人の割合はフランス11.8%、ドイツ11.7%、アメリカ15.4%であるのに対し、日本は23.1%となっています。~

管理職が、長時間労働を制限するような言動はない。野放しである。職員は、勤務時間、労働時間というものを意識することなく、差し迫った課題解決のために時間を費やしている。

~我が国では相変わらず効率悪く長時間働いている。我が国の場合、ホワイトカラーの生産性の低さが指摘されています。ヨーロッパの方が日本より生産性が高いと言います。~

生産性が低いか高いかという意識もない。その仕事の軽重など考えない。ただやらねばならない仕事が横たわっているだけである。明日が迎えられるように、準備をするだけで一日の大半は終わってしまう。それが、我が職場の常識となっている。そして私だけが大きく非常識である。(R6.4/9記)

 

 

グランパス『0-0 福岡戦』

まだまだだな、攻撃は全く改善されていない

J1 第7節 4/7(日)15:00 豊田スタジアム

11時過ぎに家を出てマイカーでスタジアムに向かう。駐車場に車を停め、ショッピングモールに立ち寄る。いつも利用する食堂には行列ができていたのだ。食品売り場でカツ丼弁当、サラダ、野菜ジュース等を買ったら1000円を超えたが、食堂でなくてもこれでいいな。

30日のマリノス戦は不参加だったのでひと月ぶりの参戦である。3連勝しての凱旋なのだが、チーム状態が上向いたわけではないということが分かった。アンカーからダブルボランチに戻し、守備面での整備はできてきたと思う。が、攻撃はまったくと言っていいほど機能していない。セカンドボールが拾えるようにはなったが、パスが全然つながらない。特に三國、中山ラインは顕著だった。スタッツを見ると、シュートは4本、枠内はたったの1本である。陣形を見るとワントップだから、そもそも攻める気がないと言われても仕方あるまい。ランゲラック、ユンカー、山岸、野上というレギュラークラスがいないのだから、引き分けで御の字と思うしかない。

ゴール裏で健気に応援したけど、それでなんとかなるものでもないようだ。早く今季初勝利が見たいものだ。(R6.4/7記)

映画『アイアンクロー』

果たせぬ夢を父親から押し付けられた兄弟たちの物語

アイアンクロー  2024年4月5日公開-132分-ドラマ    監督 ショーン・ダーキン    制作国  アメリ

次女から買った映画チケットの使用期限が迫っている。午前中に鑑賞できる作品を物色していたら本作に巡り合った。ジョギング、朝食を済ませ、自転車で市内のシネマに向かった。熱血プロレスドラマかと思ったが全く違っていた。しかし、凡評価が物足りなく思えるほどに心に刺さる作品である。

私の幼少期はプロレス全盛期だ。毎週金曜日は新日本プロレスの中継を欠かさず見ていた。アントニオ猪木と外人悪役レスラーとの闘いを夢中で観ていた。ロープに囲まれたリング、レスラーのぶつかり合い、華やかに繰り広げられる技、対戦相手の挑発ゼリフなどの「あるある」を懐かしく思った。

だがそんな華やかさの裏で、作品全編に貫かれているのは哀しみや無情さだ。その根源はストーリーを追うことでじっくりと伝わる。「自分が果たせなかった夢を息子たちで叶えさせる」という父親のエゴイズムだ。彼はけして家族を愛していない。兄弟に序列をつけたり、対戦相手をコイントスで決めたり。息子たちも、父親に洗脳されているから逃げられない。プロレスは人々を熱中させる。プロレスに憑りつかれ、プロレスにすべてを捧げ、身を滅ぼした家族の物語でもある。我が国では、野球でこういう家族が多いような気がする。(R6.4/6記)