読書8‐12『生き方の不平等』Ⅳ

「自己責任」という言葉が出たのも小泉政権の頃だったか。

~自己責任論も、自らの意志で選んだ結果だから自分が責任を持つべしというのが前提にあります。しかしすべてのことを自らの意志によってのみ積極的に選択することなど到底できるものではありません。事の成り行きやたまたまの選択と言うのも少なくないのです。~

世界的な視野に立ち、難民を助けるため、紛争の現状を世に知らせるためなどの目的で海外の危険な地域に行っている人が現地組織の人質になってしまい、身代金を要求される。それを政府がどう保障するか、という問題だったと思う。

要するに、余裕がなくなってしまったということだ。高度経済成長を成し遂げ先進国になるも、徐々に開発途上国から追いあげられ、グローバル化も進み、競争の渦に巻き込まれている。本当に競争しなくてはならないのだろうか。余裕と競争は対義語だな。

~無駄を許容できる余裕が人を育てていくのですが、今の日本にはその余裕がないように見えます。様々な生き方、多様な社会になったといわれるわりには、未婚にとどまり一人で子供を育てることに経済的なペナルティが大きいのが日本的な特徴です。~

自己責任論が間違っているわけではない。どこで線引きをするのかが問題なのだが、それを突き詰めていくと、自分の首を絞めることにならないだろうか。自己責任というと「自分でなんとかしろ」と聞こえる。自分自身も、人に頼らずに自分一人だけの力で何とかしなくてはならない。そういう生き方を迫られる。なんとも息苦しいのだ。(R5.9/16記)