読書7-16『明日のリーダーのために』Ⅲ

今日も組合活動のために割り振りで職場を離れる。そのためスーツに着替えていたので、幾人かにツッコまれた。ふだんはジャージ、職場を離れてスーツなんて、おかしな人間だよな。

~子どもたちは各国共通にすべての基礎として重視されている3Rが不十分なため、自由な読書も、空想の習慣も持つことができず、基礎的科目の学力不十分を補うために塾に通うという実態になっています。~

自分にとって「塾」というと、6年生から通いだした英語塾を思い出す。自宅を教室にして座卓を囲い込み、その中心に先生がいた。その人は下半身が不自由で、いつも座って教えていた。兄貴が通っていたので、私も行かされた。書き取り練習を繰り返すだけだった。スパルタで、間違えるとノートを投げ返した。結局、親に頼んで半年ほどで辞めさせてもらえた。友達もいる数、英の学習塾に通うという条件で。

今から半世紀前だって立派に塾は存在していた。学力不十分だったわけではない。学力が不十分になるのを予測して通ったわけだ。教育のために金銭的な負担をするのが当たり前だったのだ。

~学校で基礎を「学び」、自分の自由な時間に、自由な読書をして、自由に「空想」して友人と「遊ぶ」そのためには限られた時間を基礎(3R)に集中させることが重要であり、自由な読書と空想のための時間を確保してやることが、非常に大切だと思います。~

私も読書は嫌いではなかった。小学校では江戸川乱歩、中学校では筒井康隆、高校生では山本周五郎にハマった。入試対策だったけど純文学も読んだ。だが、大学の頃から世間で蔓延したのはゲームだ。自分がゲームにそれほど熱中しなかったのは、読書の楽しみを先に覚えたからかもしれない。

今、子どもに自由時間を与えたら、まずはゲームをするだろう。自由な時間があるときに、「読書しかなかった」と、「ゲームも読書もある」とは大きな違いである。今の子どもに読書の価値や意味を伝えるのは並大抵のことではない。(R5.3/10記)