読書『 人間であること』Ⅷ

喜びというものについてさらに語っている。

~4年生や5年生の子どもの遊びたいというのは、自分たちに創造の喜びを体得させてくれという要求であるはず。子の親たるもの、児童の教師たるもの、心すべきことである。~

なにゆえ4年生、5年生なのか。子ども(低学年)によく休日の過ごし方を聞くのだが、「ゲーム」と答える子が多い。私はゲームには疎いのだが、創造の喜びを体得できるものなのだろうか。学校教育の中でどれだけ「創造」の機会を増やしてあげられるだろうか。

~私たちは人間だけができる第4の遊びである仕事や芸道に創造する喜びを体得することでおきかえているのである。人間の尊厳という言葉をよく使うが、この行為を具現している姿にあてはまるのではなかろうか。もし、ある少年が勉強に喜びを体得できなければ、ある青年が喜びを体得できる仕事を持ってなければ、彼らは心の憂さを晴らし、うっ憤を解消するよりほかに手はないであろう。~

仕事というものを単なる生きる糧と切り捨ててしまうのも寂しい。創造とまではいかないまでも工夫のし甲斐のある営みだ。芸道は趣味と置き換えられよう。仕事や芸道も遊びというのは何となく納得できる。仕事にも趣味にも喜びが体得できなければ、うっ憤を溜まらせるしかない。

~どんなわずかな仕事でもよい。どんな厳しい勉強でもよい。そこに喜びの心が体得できる人間としての遊びがしたい。どんな些細なことでもよい。そこに喜びが求められる趣味に生きたいものだ。~

自分の仕事に喜びがあるか。喜びの心を持つには創造という行為が必要なのだ。勉強も、創造の機会を作ることが鍵なのかもしれない。