読書10‐2『平成不況の本質』Ⅺ

インネイトどんな子どもも美しく個性を持った存在である

仕事を休みにして、高校野球の県予選を観戦することにした。準決勝の2試合。甲子園常連校が2校も登場する。だから甲子園レベルの試合を見ることができると思っている。応援も吹奏楽やチアガールが加わり、本格的だ。これが自分にとっての甲子園なのだ。勝敗は気にしない。ただただ観戦を楽しんだ。

~「インネイト」(天賦の才)むしろどんな子どもにも生まれたっての彼ら固有の美しい多様な個性があるとの意味に解するのが自然である。~

子ども一人ひとりが天賦の才をもった個人である。固有の美しい個性を持った個人である。そういう意識は、我々教育者にはないだろう。何の個性もない無の存在としか思っていないのではないか。

~「インネイト」とは子どもたちの世界を大人である親、教師がじっと見守るために用意された言葉である。つまり、子どもへの愛情は彼らへの信頼によって伝わるということを我々は強く意識すべきである。そして信頼とは待つことに半ば等しいことも知らねばならない。~

私も受け持ちの子どもを信頼していない。無の存在、頼りない存在だから指導しなければならない。指導して自立させなければならないと思っている。指導することが愛情の証だと、愛情があるゆえに指導すると思っている。

その子は天賦の才を持っているのだから、それを信頼して、その才能が発揮されるまで見守り、待て、ということが言いたいのは分かる。

~時が満ちるまでは待つこと。静かに見守ること。現代の「教育」で最も軽視されていることは、こうした沈黙の教育、愛情である。~

教師は待つことはできないと思う。待っていて、子どもがだらしなくなったり、奔放に遊び呆けてしまったりするのが不安なのだ。できるわけがない。(R6.7/26記)