読書9‐6『日本人はいつから働きすぎになったのか』Ⅳ

賃金ではなく立身出世という報酬を選んだ

昨日や一昨日アクシデントを重ねてしまい、それが気になって、少々寝不足な朝を迎えた。仕事上の悩みがプライベートな時間を浸食するのは誠に不本意なことだ。今日は、そのアクシデントを補うことを最優先事項にし、あくせくと動き、なんとか収まった気がする。

二宮尊徳は多くの日本人から親しまれ支持されうるキャラクターであった。「立身出世」は人々を勤勉、勤労に駆り立てるキーワードであった。彼が「親孝行」であった。尊徳は「修身」教育における「模範的人物」になりえたのである。~

ちょうど今、道徳の教科化の本を読んでいる。二宮尊徳のイメージは、薪を担ぎながら読書するものしかない。尊徳が大きくなってどんなことを成し遂げたのかは知られていない、ということが書いてあった。彼の勉学に励むところのみが修身教育に活用されたのだ。

~第一に明治の近代化以降、「勤勉」ということがあまりに強調されてきた。江戸時代には武士階級に勤勉を尊ぶような規範意識が保持されてきた。また真宗門徒の間に「勤勉のエートス」が生まれ引き継がれた。さらに福沢諭吉らが欧米的な勤勉イデオロギーを広めた。二宮尊徳を復活させるなど勤勉イデオロギーを浸透させた。~

福沢諭吉の『学問のすゝめ』は当時の国民の10人に1人が読んだ計算になるという。みんな「勤勉」「勤労」をして「立身出世」を目指したのだ。

~第二に「勤勉」と「働きすぎ」が混同され、「働きすぎ」を肯定的に捉えるような状況が生じた。三番目に農民や労働者がやむなく「働きすぎ」に陥る状況に対し歯止めになる方策が存在しなかった。~

働くことは生きる手段のはずである。しかし働くことが目的となっている。賃金を得るという報酬よりも、「立身出世」という報酬を選んでしまう。(R6.2/7記)