読書9‐13『現代語訳 学問のすすめ』Ⅵ

議論して、知見を交換し、本を書き演説し、知見を広めよ

放課の運動場で受け持ちの子がちょっとした怪我をするという問題発生。私自身でそのトラブルを解決しようとするのだが、どうも要領を得ない。どうしたものかと思いつつ、まずは保健室へ行ってけがの手当てをすることに。養護教諭が様子を聞き出し、そして管理職も対応に加わる。確かに、怪我が起きたらまずは保健室。そこで複数で事に当たれば解決は早い。

~学問をする者は何を目的としているのだろう。「何者にも束縛されない独立」という大義を求め、自由自主の権理を回復する、というのが目的だろう。~

~志を高く持ち、学術の神髄に達し、独立して他人に頼ることなく、もし志を同じくする仲間がなければ、一人で日本を背負って立つくらいの意気込みをもって世の中に尽くさなくてはいけない。~

他人に頼っていてはいけない。一人で日本を背負うまでの意気込みではないが、私も誰にも負けないくらいの意気込みで働いている。ただし勤務時間中だけだけど。

~観察し、推理し、読書をして知見を持ち、議論をすることで知見を交換し、本を書き演説することで、その知見を広める手段とするのだ。~

議論というものは知見を交換するために行うものなのだ。自分は口が達者ではないので、言い負かされるのがいやで、議論が嫌いだ。でも「知見を交換する」というゆとりが必要なのだ。ということは、議論と言っても「相手の話を聞く」ということが大切だ。

~人間の見識、品格を高めるにはどうしたらいいのだろうか。その要点は、物事の様子を比較して、上を目指し、決して自己満足しないようにすることである。~

自分の見識や品格に満足してはいけない。自分には見識があるなんて、どこかでうぬぼれているとことがある。反省。(R6.4/25記)

読書9‐13『現代語訳 学問のすすめ』Ⅴ

独立の気概が愛国心の高まりとなった

朝から一日ぐずついた天気。気温も上がらず久しぶりに長袖で過ごした。子どもを指導するのに思うようにならない壁にぶち当たる。そんな時は人が変わるのが一つの方法だ。同僚の様子を見て、這いまわっていたので、しゃしゃり出る。

~外国に対して自国を守るにあたって、その国の人間に独立の気概がある場合は国を思う気持ちも深く強くなる。~

独立していると、国を深く強く思えるようになると。明治の頃のことだ、日本もまた二等国。一歩間違えれば植民地になりかねなかったのだろう。強い国を作るには、国民一人ひとりが独り立ちしていなければならない。

~今の世に生まれていやしくも国を愛する気持ちがあるものは、政府、民間を問わず、まず自分自身が独立するように努め、余力があったら他人の独立を助けるべきだ。父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、士農工商みなが独立して国を守らなければならない。~

子どもを独り立ちさせるために、学校があり、教師がいる。おそらく、「強い国を作るためには個人が独立していなくてはならない、そのためには学ぶことが必要だ」というのが本書の趣旨だと思うが、現代版「学問のすすめ」があるとしたら、どうなるだろうか。今、「国を守らねば」と大っぴらに表現しても、なかなか受け入れられないだろう。国を守る、国を強くする、という大きな理想があったからこそ、教育が浸透したのだ。(R6.4/24記)

読書9‐13『現代語訳 学問のすすめ』Ⅳ

学がなければ、騙される、利用される、損をさせられる

一昨日、故障したマイカーは一夜明けて整備店に連絡し修理を依頼。整備店への輸送をまたJAFに依頼した。JAFが我が家に訪れ、マイカーをレッカーに取り付ける際、なんとバンパーに傷を付けられた。マイカーが故障し、しかも傷も付けられる。まさに泣き面に蜂である。

~人民が暴力的な政治を避けようとするならば、いますぐ学問を志して自分の才能や人間性を高め、政府と同等の地位にのぼるようにしなければならない。~

「こんな勉強、意味があるのだろうか」とつい思ってしまう。子どもに学習内容を理解させるのに、果てしない距離を感じる時にそれは顕著になる。だが、学習内容というレベルではなく、学習そのものに意味がないと思ってはいけない。やはり人間は賢くあるべきだ。人民が無学であれば、政府に舐められる。人民が舐められれば、政治は暴力化する。人民が賢ければ、政府に対し正しい選択ができる。学がなければ、人から騙されたり、いいように利用されたりするのだ。損をさせられるのだ。

~一国の文明を発展させるにはただ政府の力のみに頼ってはならない。~

学がないものは、政府の力に頼る。政府が暴力的になっても、それに抗えない。なすすべもなく受け入れるしかない。(R6.4/23記)

読書9‐13『現代語訳 学問のすすめ』Ⅲ

社会的役割にふさわしい知識や人間性を備えることが大事

貴重な経験なので記しておきたい。

グランパス観戦から雨が降り続く我が家への帰り道、あと5分ほどで到着というところで、急にマイカーに警告灯がつき、エンジンが止まった。私は直感的にまずいと思い、カレーチェーン店に緊急避難的に車を入れた。中途半端に止まってしまったので、従業員に助けを請い、奥まで車を押してもらった。店の人にも挨拶した後、我が家まで走って帰り、電話でJAFを呼び車を診てもらった。電話してJAFが来るまで1時間30分かかった。私は単にバッテリーが上がったのだろうと思ったのだが、もっと深刻な故障らしい。ディーラーや修理屋に頼める時間ではなかったので、家までレッカー移動ということになった。

こんなに大きな車のトラブルに巻き込まれるのはそうそう記憶にない。気持ちも落ち込んだが、それでも雨の中のJAFの職員の作業の手際の良さ、チェーン店への対応など、かえって清々しさを感じられた。

~大事なことは、人としての当然の感情に基づいて自分の行動を正しくし、熱心に勉強し、広く知識を得て、それぞれの社会的役割にふさわしい知識や人間性を備えることだ。~

正しい行いって大事だな。当然の感情というのはよく分からないけど、自分の気持ちだけでなく、それをしたら相手がどんな感情になるかを想像することが必要なんだと思う。本を読んで知識を得ていきたいけど、人間性を備えることも怠ってはならないな。(R6.4/22記)

グランパス『2-1 セ大阪戦』

数々の敗戦もこの日のための演出だったのだ

J1 第9節  4/21(日)15:00  豊田スタジアム

朝から座禅、カフェモーニング。家で少し昼寝をして起きた頃にはもう本降りの雨だった。マイカーでスタジアム近くの駐車場に向かい、そこからはカッパを着て現地に向かった。スタメン発表の5分前位に座席に着いた。なお、ゴール裏座席は雨が降り込むことは全くなかった。

相手は首位のセレッソ、引き分けで御の字である。前半から終始、主導権を握っていたのはセレッソだった。我が軍は前半、シュートを1本も打っていなかったと思う。それに対し相手コーナーキックは何本あったことか。前半を0-0で折り返せば、後半は選手間の距離が出てきて、こちらもチャンスがあるかもしれないとは思っていた。

先取点はコーナーキックから。三國があの位置にいるのは流石。それなりの意識を持っているのだろう。私が得点シーンを観たのは今季初である。だが、すぐに失点。これにも三國が絡んでいる。同点にされ、どうなることかと思ったら、カップ戦2得点のパトリックが大活躍。森島からのクロスを合わせ、永井にアシスト。そしてジャンピングボレー。気迫が乗り移ったかのようなゴールを観ることができた。その後も、気が狂ったように声をあげ飛び跳ね応援した。そして終了のホイッスル。半年いやそれ以上も待ちに待った勝利の余韻に浸ることができた。それまでの数々の敗戦も、すべてこの日のためにあったのだと思った。試合内容はまだまだだが、グランパスは明らかに変わり始めている。(R6.4/22記)

 

 

読書9‐13『現代語訳 学問のすすめ』Ⅱ

このレベルの政府を我々が選んでいる

今日から懇談会のために短縮授業。そのためか半日があっという間に過ぎていった。子どもが帰ってから、耕運機を使って畑を耕す。まとまった時間があったらどうしてもやりたかったのだ。15時に職場を離れる。夕方は組合の会議に行くのだ。

~国が辱められる時には、日本国中のみなが命を投げ出しても国の威厳を保とうとする。これが一国の自由独立ということなのだ。~

~天の道理や人の当たり前の情にきちんと合っていることだったら自分の一命をかけて争うのが当然だ。これが国民の為すべき義務というものである。~

「命を投げ出しても」「一命をかけて」という表現が目に付く。昔の人は、命をそんなに大切にしなかったのかも。命よりも国の威厳を保つこと、命よりも天の道理、情との整合性を保つこと。そういった背景があったから、太平洋戦争などの「お国のために」という考えもまかり通ったのかも。

~今この日本においても、このレベルの人民があるから、このレベルの政府があるのだ。~

与党の派閥の裏金問題が起こり、批判の声が高まったのだが、天に唾を吐くようなものだろう。「この方々を選んだのは、自分たちなのだ」と思わなければ、これからも腐敗は続く。(R6.4/19記)

読書9‐13『現代語訳 学問のすすめ』(斎藤孝)

現代語訳 学問のすすめ (ちくま新書)  – 2009/2/9 福澤 諭吉 (著), 斎藤 孝 (翻訳)

視写期間2019年11月26日~30日 視写量5p

~賢い人と愚かな人との違いは学ぶか学ばないかによってできるもの。~

私は学んでいる。本を読み、視写し、ブログにあげることで。もうそれが5年以上になる。

~分限とは天の道理に基づいて人の情けにさからわず、他人の害となることをしないで、自分個人の自由を獲得するということだ。~

天の道理というのは自然の法則のようなものだろうな。今まで自然の法則に逆らってばかりだったような気がする。天の道理など関係なく、自分の努力でなんとでもなると思っていた。それは、思い上がりだったのだ。

~こちらで余っているものは向こうに渡し、向こうで余っているものはこちらにもらう。お互いに教え、学び合い、恥じることも威張ることもない。お互いに便利がいいようにし、お互いの幸福を祈る。~

福沢諭吉の時代は、まだ人々の生活は豊かではなかった。それこそ、こちらで余っているものを渡したり足りないものをもらったりしていたのだと思う。だが、現代は、みんな豊かになった。互いに補い合う関係もなくなってしまったのだろうな。だから、「互いの幸福を祈る」というのは、相手が幸福でなかったら、自分も恩恵がなかった、という意味だ。「互いの幸福を祈る」という感覚は、今の世の中には皆無だろう。(R6.4/18記)