読書『不幸な国の幸福論』Ⅱ

不幸な国だという例が挙げられている。それは、社会保障費の貧弱さである。

~いざというとき暮らしを守り支えるためのセーフティネットがわが国ではいかに貧弱かが分かり愕然とします。社会保障がなぜ貧弱なのか、経済が発展したことで得たお金をさらなる経済成長のために使ってきたからです。~

なぜ社会保障が貧弱なのか。それは土木建築、公共事業に多額を費やしてきたからである。

~こんなにも土木建築に費やしていたら他のことに回す予算が少なくなるのは当然でしょう。欧米が社会保障に公共事業の2~9倍支出していたのに対し、日本だけは社会保障費が公共事業費の6割未満でした。~

例えば高速道路。高速道路のおかげで快適なドライブができる。また流通を発達させるためには交通網を整備することが不可欠だ。すべては経済成長のための公共事業なのだ。どうしてこの国はこんなに経済成長を求めるのだろうか。

~コンクリートで覆われた川や海岸や山、あふれる看板や騒音によって五感を刺激され続けることに慣れてしまい、そういう生活環境が自然の一部である人間に多大なストレスを与える。~

経済成長だけを追い求めて、環境を破壊してしまう。そして人間自身を苦しめてしまう。昭和にあった「公害」もそうだ。

アメリカの軍事費より遥かに大きな額を土木建築につぎ込み続けたためにソフトウェアなど先端的な産業の成長が遅れた。~

~半世紀にもわたって目先の利益と経済成長ばかりを優先し、ほとんど車の通らない道路や利用しない箱物施設、益より害の方が多いダムを全国津々浦々に作り続けていった。「日本の破産への道は公共事業によって舗装されている」~

日本全体の均一化を求め、全国に高速道路を行き渡らせた。地域の発展ではなく、経済の発展のための公共事業だったのだ。その間、高齢化、少子化にもなり、地方はどんどん衰えていく。多額をつぎ込んだ公共施設も無駄になってしまった。なんともばかげた話だ。

読書『不幸な国の幸福論』(加賀 乙彦)

不幸な国の幸福論 (集英社新書) – 2009/12/16 加賀 乙彦 (著)

我が国は幸福の国だろうか、不幸な国だろうか。前者とはいいがたいだろう。自殺者が多い。経済は上向かない。まあ、もっと広く世界を見渡してみればもっと大変な国や地域はあるだろうから、不幸な国とも言い切れないのだが。

~日本人は概して自分の頭で考え抜くという作業が苦手です。しかも現代社会の有り様が私たちから「考える」という習慣を奪いつつある。~

考えるとは「知識や経験などに基づいて、筋道を立てて頭を働かせる」こと。全くその通りだ。自分自身、毎日の中で「頭を働かせる」ということはあっても、「考える」という機会はほとんどない。「考える」には、腰を据えての一定の時間が必要なのだ。

~社会や人間や自分自身について繰り返し考えることで、私たちは世の中の仕組みを知り、人への理解を深め、自分の性格傾向に気づくことができる。~

「考える余裕がない」「考える時間が無い」という言い方をした。が、私は比較的に時間の余裕があった休職中も、考えることから避けていた。本ばかり読んでいた。自分自身を見つめ直すのにふさわしい時間であったのに。自分自身と向き合うのが嫌、苦手なのだ。

~しっかりと目を開き耳をそばだてて広く世の中を見渡し、社会や人間について考えていかないと、その時周りに流布している浅はかな言葉や価値観に振り回され、右往左往してしまいがちです。そして必要以上に自信を失って、自分は価値のない人間だと思い詰めたり自暴自棄になったりしかねない。~

考える力がない、考え抜くのが苦手、というのはわが国の「同調圧力」の強さと関係あるのではないか。とある国では初期の学校教育で、徹底的に自分について考えさせられるそうだ。「自分は何者であるか」と。自分という人間が明確化されれば、振り回されることも、自信を失うこともないだろう。

しかしわが国では、学校教育でまず、「みんな同じ」と、合わせること、同調することを強いられる。我々は子どもに「もっと自信を持って」と働きかけるが、自分というものの形成が不十分なのだ。

 

映画『お終活 熟春!人生、百年時代の過ごし方』

お終活 熟春!人生、百年時代の過ごし方 (2021)監督 香月秀之

本日、グランパスのホームゲームがあったのだが、帰りが遅くなるのが嫌で今回は観戦を辞退した。負け試合だったからまあよかった。その埋め合わせとして、10分割り振りを取って、隣市のショッピングモール付設の映画館に向かった。

本作品はそれほど興味はなかったのだが、高評価であること、レビューの内容もよかったこと、帰りも遅くならない時間ということもあって鑑賞を決定。

なかなかいい映画だと思う。よさをあげると、まずは、盤石の安定性だろう。登場人物に悪者は一人もいない。画面全体も明るく、不安要素、不幸せそうな影は微塵もない。こういう映画を観ると、映画というものがより好きになる気がする。

そして、役者の演技がいい。主人公こそアイドル出だが、真の主役の橋爪、高畑は風格を感じる。その他おなじみのバイプレーヤー総出演で支えている。

さらには、選んだテーマだ。超高齢化社会のわが国にマッチした題材だ。熟年(何歳からなのか分からないが)手前の私も、自分の将来を思い描きながら橋爪に自分を重ねていた。

「誇り」とは「愛」、「愛」とは「許し」だということ。ただの熟年夫婦喧嘩物語ではありません。どんな老後を送りたいのか、参考になる映画です。

読書『人は何で生きるか』(トルストイ)

トルストイの書である。

~人間の中にあるものは愛であるということを知りました。~

愛という言葉が目につく。日本人である我々は、「愛」という言葉に縁遠い。それは仏教の国だからだと思う。わが国にもキリスト教がもっと広く根付いていれば「愛」という言葉もなじんでいたと思う。「愛」というと何かいやらしいものを連想してしまうのは自分がおかしいのだろうか。

~私はすべての人は自分のことを考える心だけでなく、愛によって生きているのだということも知りました。~

~こうしてすべての人は彼らが自分で自分のことを考えるからではなく、人々の心に愛があることによって生きていっているのです。~

トルストイの言う「愛」とは利己的な考えと相反するものだと分かる。「他を思いやる気持ち」が愛なのだ。

~愛によって生きているものは、神様の中に生きているもので、つまり神様はその人の中にいらっしゃるのです。なぜなら神様は愛なのですから。~

神を信じるということ。それは自分のことを考えるのではなく神のことを考える。自分を第一にしないことが他を思いやることにつながるのだろう。

表題に対する答えとなる一文である。

~人間は、何のために生きればいいんですかね。神様のためにさ。おまえに命を下されたのは神様じゃから、神様のために生きなければならんのさ。神様のために生きるようになりさえすれば、何でもなく思われるようになるものじゃ。~

ちょうど、前回『流されて生きなさい』は禅僧の書である。「私たちの命は仏様からお預かりしているのです」とあった。とても似通っている。

この命も神や仏から預かったりいただいたりしたものだ。命というと大げさだが、この時間、この境遇、この世界。これらは自分のものではないということだ。自分が、自分が、という心ではなく、自分の役割を全うするということ。自分のために為すのではなく、この世界を有する神や仏にために為すということ。

 

 

読書『流されて生きなさい』Ⅵ

今回を最後にしよう。目に留まった言葉を書き連ねていく。

~私たちの命は仏様からお預かりしているものです。いつやってくるか分からない人生の終わりを迎えるその日まで、生き続けなくてはいけないのです。~

自分の命は自分のものではなく仏様からの預かりもの。

~「無常」この世は常に移り変わる。常なるものなどどこにもない。常に移り変わっているからこそ、私たちはその変化を楽しみ、あるいは克服しながら生きるのです。~

我々はいま苦しかったらそれが永遠に続くものだと思い込んでしまう。「この世は常に移り変わる」ことがわかっていれば、そう苦しむこともないわけだ。

~「安穏無事」安らかで何事もない平穏な状態。何事もない変わらぬ日々にこそ幸せは宿っている。~

~幸せというのは「なる」ものではありません。幸せとは「感じる」ものであることに気づいてください。幸せに生きている人というのは、幸せを感じる力のある人です。~

よく「幸せになりたい」と聞く。それは間違いなのだ。ところで、私も時々幸せを感じることがあるが、あまりそれを口に出したくない。口に出したら、それが壊れてしまいそうだからだ。

~耐えきれないほどの苦しみが襲ってきたとき、いっそ苦しみぬくことです。どんな苦しみも永遠に続くことはありません。いつか必ず人生の流れは変わるはずです。その流れが変わるまでともかく今を一生懸命に生きることです。~

そういえば以前、「悩みは不幸、苦労は幸せ」という言葉があった。苦しんでいる時こそ、幸せなのかもしれない。ちなみに仏教では、「生老病死」の4つはすべて苦しみだとしている。我々は、仏様から命を預かっている。それは苦しみを預かっているというわけだ。

~苦しみが深ければ深いほど、流れが変わったときの喜びや嬉しさは人一倍大きいものです。それは苦しみを味わった人でなければ感じることができないと尊いものです。苦しみがあるということは、あなたが生きているということです。そのことに感謝しつつ、前を向いて歩き続けてください。歩みを止めるその時まで生きなければならないのです。~

そんなに期待してはいけない。生きること自体、苦しいのだ。だがその苦しみの流れは時に方向を変える。その時に喜びや嬉しさが訪れる。苦しみも、喜びも、嬉しさも味わえる、それが人生なのだ。自分の人生を送ることができる、そのことに感謝せよ。それを最後まで味わえ。

映画『夏時間』

 夏時間 (2019) MOVING ON 監督 ユン・ダンビ

隣市のミニシアターはサービスデー。高得点を叩き出している本作品を観ることにした。サービスデーなので、観客は10数人ほど。割と入っていた。

この作品、かなりの異色作だと思う。どこが、というわけではなく、全体として存在感を放つ作品なのだ。描かれているのは、ある親子の日常だ。父親が離婚するのも、それを機に実家に行くのも、主人公の少女が容姿を気にするのも、兄弟げんかをするのも、祖父との別れも、至ってありきたりの日常だと言える。普通の、日常の時間が流れる。ただ、時間でしかない。それこそ、表題の『夏時間』だ。

しかし、それは第三者からみた景色だ。少女本人にとっては、ひと夏の時間の流れの中での出来事は、一つ一つ、大きく重くインパクトをあたえていくのだ。その結果が最後のシーンに繋がるのだ。

もう一つ学んだこと。それは親が子どもに「お前だって」とは言ってはいけないということ。私もそんな言葉を娘たちに放ったかもしれないけど。

じわああーっと来る作品です。

読書『流されて生きなさい』Ⅵ

どうしても、いつの間にか、完璧を求めてしまう。

~「完璧にしなければ」という思いが厄介なのは、自分を追い詰めることだけではありません。それを人に求めるものだからです。そうなると人間関係に問題が生じるのは当たり前です。~

教師という仕事は厄介だというと、言い逃れに聞こえてしまうだろうか。基本、子どもは未熟な存在だ。それを指導するのが教師だ。子どもの成長を求めるところに教師の存在価値がある。子どもにどこまでの成長を望めばいいのか分からなくなる時がある。また、上司からの指導や同僚の存在が、自分の判断を揺るがせるときもある。

~「完璧」が幻想であるように「普通」もまた幻想です。すべてのことに完璧と普通を求めないことです。~

だから、教職というもの自体、捉えどころのない、わからないものなのだ。いや、仕事自体、もしかしたら人生そのものがそうなのかもしれない。だから「自分は完璧を求めすぎていやしないか」と常に立ち返る、問い直すこと姿勢が大切なのだ。

~自分にはない何かを求めて自分を追い詰めるのではなく、自分の中にあるものに気づき、優しく受け入れることです。相手にはない何かを求めて厳しく接するのではなく、相手の中にある良いところを見つけて、それを褒めたたえることです。そのためにも、「いい加減」な気持ちになってみましょう。~

「完璧を求めるな、いい加減であれ」自分のよさに気づき受け入れること、相手のよさを見つけ褒めること。それはどちらもできなくてはならないし、子どもを前にしたテクニックの次元ではないのだ。