読書『人は何で生きるか』(トルストイ)

トルストイの書である。

~人間の中にあるものは愛であるということを知りました。~

愛という言葉が目につく。日本人である我々は、「愛」という言葉に縁遠い。それは仏教の国だからだと思う。わが国にもキリスト教がもっと広く根付いていれば「愛」という言葉もなじんでいたと思う。「愛」というと何かいやらしいものを連想してしまうのは自分がおかしいのだろうか。

~私はすべての人は自分のことを考える心だけでなく、愛によって生きているのだということも知りました。~

~こうしてすべての人は彼らが自分で自分のことを考えるからではなく、人々の心に愛があることによって生きていっているのです。~

トルストイの言う「愛」とは利己的な考えと相反するものだと分かる。「他を思いやる気持ち」が愛なのだ。

~愛によって生きているものは、神様の中に生きているもので、つまり神様はその人の中にいらっしゃるのです。なぜなら神様は愛なのですから。~

神を信じるということ。それは自分のことを考えるのではなく神のことを考える。自分を第一にしないことが他を思いやることにつながるのだろう。

表題に対する答えとなる一文である。

~人間は、何のために生きればいいんですかね。神様のためにさ。おまえに命を下されたのは神様じゃから、神様のために生きなければならんのさ。神様のために生きるようになりさえすれば、何でもなく思われるようになるものじゃ。~

ちょうど、前回『流されて生きなさい』は禅僧の書である。「私たちの命は仏様からお預かりしているのです」とあった。とても似通っている。

この命も神や仏から預かったりいただいたりしたものだ。命というと大げさだが、この時間、この境遇、この世界。これらは自分のものではないということだ。自分が、自分が、という心ではなく、自分の役割を全うするということ。自分のために為すのではなく、この世界を有する神や仏にために為すということ。