読書7-10『1秒もムダに生きない 時間の上手な使い方』Ⅸ

新年3日目。昨日は自分の実家(と言っても両親とも亡くなり、兄貴夫婦が継ぎ、しかも市の区画整理で転居しているのだが)を訪問。我らと長女家族、次女家族の総勢9人が仏壇に挨拶。今日は、その9人が家人の実家を訪問。

「主体的に生きる」というのを今年のテーマにしようと思い始めた。主体的に生きるには他者の眼差しに囚われてはいけないと思ったのだがそうでもないようだ。

~心に余裕を持ち、他者に敬意を払い、相手を先に通す精神を、ぼくは美しいと思います。~

「心に余裕、他者に敬意、どうぞの精神」ということだな。

~ゆっくりとたっぷりと贅沢に時間を使った方が、事物をじゅうぶんに楽しめるときがります。それが観劇であり、映画鑑賞です。このようなときにはむしろ、意識的に他者の眼差しを取り込み、その厳しい枠組みの中にハマって定型的にふるまった方がその対象を十二分に楽しむことを可能にすることもあるようです。~

昨年もたくさん映画を観た。おそらく150本はいくだろう。ただ、たくさん観ようとしすぎて、一つ一つを本当に楽しめたかというとそうでもない気もする。鑑賞後の余韻もないまま、すぐ次の座席に着くとか。

観劇や映画鑑賞において他者の眼差しを取り込むというのがよく分からない。マナーを守れということだろうか。

~他者の眼差しが規定する制限が有効に作用する「場」では、その眼差しに身を任せ、そうでないときには主体的に自律的に他者の眼差しから自由に振舞う。両者の取捨選択を適切に行う判断こそが重要なのかもしれません。~

結局は、両極端ではいけない。まだ著者のいう「眼差し」が読み取れていないのかもしれない。(R5.1/3記)