読書7-3『「こころ」の本質とは何か』Ⅱ

精神遅滞ということについて書かれている。

~子どもたちがまわりの世界を知ってゆく歩み、認識の発達とは「おくれ」を必然的にはらむ。だれにとっても理解(認識)とは「おくれる」のだと村瀬さんは主張しています。ただその「おくれ」には相対的な個人差があって、遅れがとりわけ大きな子を「知恵遅れ」とか「精神遅滞」と呼んでいるに過ぎない。それ自体はなんら病的な「異常性」ではなく、人間の理解(認識)というものの普遍的な本質なのだということです。~

発達には個人差がある。私の孫は体も小さいし、言葉がなかなか出てこない。周囲は心配の声をあげるが、私はまったく気にしていない。きちんと意思表示をするし、表情も豊かで我の強ささえ感じる時もある。

精神遅滞とは精神発達の道筋から逸脱した「異常」な現象ではなく認識の発達というものが備えている構造から自ずと生み出される自然の現象なのです。~

精神遅滞」とか「知恵遅れ」という言葉は、すでに発達を終えた者や、先に発達している者が差別的に使う身勝手な言葉だなと思う。

~精神発達の子どもたちの体験世界はとても不安が高い世界だということ。この子たちは不安に彩られた精神生活を送らざるを得ません。このことへの理解が大切です。~

特別支援の子どもたちと接していると、「不安の高さ」というものを強く感じる。きっと我々の理解を超えた大きな不安にどっぷりと浸かっているんだろうな。だが、なんとか通常級の子と同じことを要求してしまう。どこまで要求したらいいのか、実際にすごく迷う。迷いながらも、それがベストなのだと言い聞かせて。(R4.10/19記)