読書6-18『社会力を育てる』13

今日は午前中だけ勤務して午後は休みを取った。ずっと行きたかった喫茶店で、ランチを食べ、床屋に行った。

産業社会を発展させるための教育ではいけない。どんな教育が望ましいのか。

~まず言えることは、教育をごく自然な営みに近いかたちに戻すことである。教育のごく自然なかたちとは、親やその親たち(先行世代)が我が子や孫(後続世代)に生きる術や心得を伝えるというかたちである。なぜ親たちが我が子に生きる術や心得を伝授したのか。自分と同じように生きていくことができることを願って、自分のようなやり方をすれば、そこそこ幸せに生きていくことができると考え、自分が習得した生きる知恵や技術を伝えたためだといえる。~

現代は近代社会となり、国の支配がじゅうぶん浸透してしまっているのだ。教育は親がするものというより、国がするものという考えが行き渡っている。親も、子どものことは学校に任せておけばいいと思っているの節があるだろう。家庭の教育力は失われ、学校に、教師に、過度な負担がかかっている。親は、子どもの教育を国や学校に任せたはいいものの、過度に競争を煽る教育だったり、知識偏重の教育、画一的、効率的な管理教育が横行してしまっている。加えて経済を優先する社会も、それをバックアップしている。

~日常の生活や他の人と仲良くともに生きていくために直接役に立つ知恵や技術などであったはずである。教育の基本がそこにあることをわすれてはならない。すなわち、後に続く人たちがそれぞれの善き生を生きていけるようにしてあげることである。~

生きていくために直接役に立つ知恵や技術に立ち返るのであれば、現在のカリキュラムや制度は大きく見直さねばならないだろう。

コンピテンシーを育てることは、個人の成功と社会の発展を二つながらに実現することになるという教育観こそ、私たちが見習うべきことである。社会の発展を先にするのではなく、まず社会で生きる一人ひとりの善き生を実現すること、そうすることが結果として、社会の健全なる維持と発展につながるという教育観こそ、私たちが学ばなければならないものである。~

やはり、個をまずは優先させること。それが社会の健全な発展につながるのだ。文科省の、「国の経済を発展させるために教育がある」というスタンスは改めねばならない。

(R4.8/22記)